====【はじめに】====
前回までは、ジェンダー・フリーに特有な二つの語用を中心にジェンダー・フリー
を
眺めてきました。その過程で
問題[A]:解放とは個人の解放であって、制度の変革とは何ら関係がないのではな
い
か
問題[B]:そもそも、ジェンダーと称される差異から「解放される」こと自体が可
能
なのか
との二つの問題が姿を現したのですが、これについて語るためにはジェンダー・フ
リーそのものについて語らねばなりません。ジェンダー・フリーをより俯瞰的に眺
め
る作業をこれから展開し、もって上記の二つの疑問に対する回答となすことにしま
す。
ゆえに、前回までを第1部とするならば、今回からは若干異なる視点で見ることに
な
る第2部ということになります。
※くれぐれも申し上げておきますが、軽い読み物程度に読み流してください。その
よ
うなスピードで読まれることを念頭にして書いている次第ですので・・・
===【そもそもフェミニズムとは何だったのか】===
フェミニズム(feminism)とは、女(female)の解放を目指す思想であり、運動で
す。もっとも、フェミニズムという呼称が一般化されたのは1970年代のことで
あ
り、かつては女性解放運動と呼ばれていました。
歴史的に並べるならば(乱暴なつなぎ方ですが)、「女性解放運動」⇒「フェミニ
ズ
ム」⇒「ジェンダー・フリー」との流れを見ることができるでしょう。
この三者に共通するのは「解放」という言葉です。ただし、「何を解放するのか」
「何から解放されねばならないのか」という中身については時代時代の状況により
顕
著な変化があります。
女性解放運動は、女性の権利を拡張する運動として始まりました。ただし、女性解
放
運動が拡張しようとした権利は「政治的権利」であったことは十分に留意されねば
な
りません。
その政治的権利の象徴として、女性解放運動の中心的目標となったのが選挙権の獲
得
でした。
近代社会の基本原理は人間の平等です。すなわち、生まれによって差別されては
な
らないということであり、能力の違いがあることを前提としながらも幸福になるた
め
の競争において不公正があってはならないとする考え方です。
ですが、この原理は至極もっともでありながらも、実社会に当てはめをしようと
す
ると様々な困難を人々に強いることになります。選挙権を例にとるならば、「人間
は
平等である」とのスローガンから「ゆえにすべての人間には選挙権がある」との中
間
命題を引き出し、「ゆえに生まれた直後の幼児にも選挙権がある」旨の結論を導く
人
はいません。「選挙権を持つならばそれなりに一人前の人間でなければだめでしょ
う」との発想が出てくるのが自然です。だからこそ一人前でない未成年者には選挙
権
が付与されないのです。
19世紀において労働者階級・女性に選挙権が付与されなかった理由は、まさし
く
これらの人々が「一人前」とみなされていなかったことにあります。女性は政治的
判
断能力の面において「一人前」ではないとみなされたのです。
この一人前とみなされなかった労働者階級・女性を比べた場合に、選挙権を付与
さ
れた時期が早かったのは労働者階級でした。労働者階級の力が相対的に強くなるに
従
い、制限選挙制度は労働者階級に対しては徐々に緩和されていきます。
にも関わらず、女性に対する制限は続きます。「おんな子ども」という表現がありますが、いつまでたっても女性は一人前としてみなされることはありませんでし
た。
これは参政権のみならず、進学・就職・相続等の様々な場面でも同様です。
そこで女性解放運動はこう主張したわけです。「一人前であるかないかは問題では
な
いのです。男性も女性も等しく『人』なのです。人として女性は男性と同じ権利を
享
受する資格があるはずなのです」と。
この主張は次のように要約できます。
「女性は『人』として男性と同じ権利を有する」
この主張の中に現れる『人』および『権利』の用いられ方は、後のフェミニズム、
ジェンダー・フリーとは似て非なるものです。女性解放運動の目的は詰まるところ
「門戸開放」なのであって、それは社会に参加する権利の獲得を目指すものです。
この「門戸開放」をそのまま素直に展開していくのならば、この場合の『人』と
は、普遍的存在としての人間を想定するものではなく、特定の利益集団(ゲゼル
シャ
フト)の構成要件としての人を指します。各文化により女性の扱われ方は千差万別
で
す。その社会の中での「門戸開放」のされ方は、文化ごとの基準により為されねば
な
りません。
無論、この場合にも『人』を普遍的な意味での人間と捉えて、「すべての女性」
は
参政権を獲得すべきであるとの見方も存在しました。むしろ、こちらの勢いが『運
動』としては主流であったと申すべきなのかもしれません。
なぜならこちらの見方にはフランス革命的平等主義とマルクス主義が加担したか
ら
です。
===【マルクス主義と女性解放運動】===
女性解放運動の思想原理はマルクス主義の影響を強く受けました(ベーベルの
『婦
人論』等)。これは女性解放運動の発展期と共産主義の勃興期が時期的に重なるか
ら
です。
もっとも、厳密にはマルクス主義の影響を受けたのは女性解放運動の思想原理で
あって、運動方法に関する原理についてはレーニン主義の影響を色濃く残したと申
し
た方が適切なのかもしれません。
ここでマルクス主義について少々述べることにしましょう。
マルクス主義は知識人にとって(文字通りの)バイブルです。それほどまでに知
識
人の心を捉えたのはマルクス主義の万能性(=通有力)にあります。
今世紀の前半を語る上で欠かせない分析哲学も実存主義も、自覚的に自らを部分
意
識と定義しました。つまり「われわれのやっていることには限界がある」ことを承
知
の上で己の主張を語るのです。
ところが、マルクス主義に限界はありません。この世の森羅万象すべてのことが
そ
の対象となります。政治・経済・科学・歴史・言語・・・・すべての領域を網羅で
き
るのがマルクス主義なのです(少なくとも彼等はそう主張しました)。物理学者武
谷
三男は戦中に特高警察に共産主義の嫌疑をかけられ逮捕されましたが、取り調べ室
で
特高警察官相手に難解な数式の羅列を提示して「この数式のここからここまでを飛
躍
させるのはマルクス主義でしかできないのです」と豪語したのは象徴的です。思う
に、彼の主張はハッタリではなく事実なのでしょう。
なぜならば、マルクス主義の基本原理は意外なほどに単純にできているからです
(私はそう解しています)。誤解のないように付け加えますが、これはマルクス主
義
が簡単であるとのことではなく、マルクス主義を貫く背骨がはっきりと見えるとの
意
です。
背骨がはっきり見えるのならば、後は肉付けだけを考えれば良いのです。森羅万象
の
すべてのことを説明できる背骨があり、そこに各ジャンルで肉付けをしていくとい
う
作業、広大な未開の地に思想的な鍬を打ち入れる作業・・・これほどまでに魅惑的
・
知的好奇心を掻き立てる提示はありません。
しかしながら、マルクス主義の万能性には大きな問題点が二つ見受けられます。
ひとつは、万能性であるが故の停滞現象並びに権威主義です。万能であるというこ
と
はそれのみで存在しうるという意味です。詰まるところマルクス主義は自給自足が
可
能であり、マルクス主義者はマルクス主義だけをやっていれば良いという結論が導
か
れます。これでは完結した教条的宗教体系にも似て停滞の一途を辿るより他はあり
ま
せん。
もうひとつの問題点は(こちらがより深刻ですが)、万能性を有するがゆえに
「全
ての事象をそれで説明したくなる」誘惑が常につきまとう点です。マルクス主義が
も
つ社会改革への指向性と相まって、この誘惑は「思うがままに社会を変えることの
出
来る」ものへと昇華されかねません(マルクス主義が「青年の学問」と称される所
以
です)。
さて・・・その万能性ゆえにどこにでも顔を突っ込むマルクス主義は、当然に女性
解放
運動にもちょっかいを出します。
マルキストは女性解放運動において、女性は労働者と協力して資本主義社会を破
壊
するために闘うべき存在として位置づけました。
将来において達成される共産主義社会では階級の支配および人間による人間の支
配
はなくなるのであり、その社会が実現すれば女性も支配から解放されるのだ・・・
との
理屈が、労働者と女性を連帯して位置づけた理屈です。今から見れば笑止の沙汰で
す
が、往事は「資本主義社会は階級社会であり、資本家階級が労働者階級を支配して
い
る。女性に対する支配・差別もこの支配政策の一環であって、ゆえに、労働者が解
放
される過程と同じくして女性も解放されうるのだ」とのテーゼは魅惑的な力を持ち
得
ました。
なぜなら、それは単なる理論の域にあるものではなく、レーニン主義と相まって
現
実に存在させることの出来る実現可能性のあるものとして受けとめられたからで
す。
しかし、婦人参政権等を目的とした女性解放運動が、第二次世界大戦後にフェミニ
ズ
ムと名を変えて70年代に差し掛かる頃にはマルクス主義の影響は薄れてきたよう
に
見受けられます。その理由としてマルクス主義自体が退歩してきたことも事実です
が、根本的な部分で、女性の政治的権利が概ね拡張されてしまったことが大きいの
で
しょう。
====【権利の問題から文化の問題へ】====
戦後のフェミニズムは、女性の権利の拡張を目指して権力と闘争を繰り広げまし
た。
しかし、現在の先進国では、女性差別は基本的になくなっています。公的な次元
(端
的には法律)において女性を差別することはありません。
※ これは余談ですが、現行の日本国民法において夫婦別姓などよりも深刻な
女性差別といえば「長男の嫁の寄与分」の問題でしょう。「寄与分」とは、
被相続人(=死者)に対して多大なる貢献をした人に相続財産の中から特別に
ある一定の額を与える制度です。寝たきりの老父を介護した娘や息子等に
対して(相続分)+(寄与分)という形で与えられます。ところが長男の嫁が
寝たきりの義父を介護し続けても寄与分は一円も与えられません。民法に
おいて最大の立法過誤ではないかとの声もあります・・・が、なぜか夫婦同
姓に反対する人々はこの問題を視野には入れることがありません。
もっとも、この問題が「女性」差別ではなく「嫁」差別として扱われている
限り、彼らがこの問題を取り上げることはないでしょう。つまり、彼らのフィル
ターに入るものについてのみ彼らは「それは差別ではないか!」とがなり立
てるのです。困っている人がいるから主張するのではありません。自分の理
屈で説明できる人が「たまたま」困っているから彼らは主張するのです。
公的な次元で女性差別が概ね撤廃されてしまったフェミニズムは、大胆な転換を図
り、「男と女の関係」そのものを問題にし始めるようになります。女性の敵は国家
権
力や資本家階級などではなかったのだ!女性の真の敵は男性社会それ自体だ!・・
・と
主張しだしたのです。
つまり、フェミニズムの敵は政治制度ではなく文化になったのです。
「女らしい女」とは「いい女」のことだ。それじゃ、誰にとって「いい」の?と問
え
ば、それは「男にとって」といいということだ。それは「男の支配」じゃないか?
わ
れわれの文化、われわれの日常の生活は「男の支配」下にある!とフェミニストた
ち
は言い始めたのですが・・・・
この主張をした時点で、フェミニスト達は己の手で自らの死刑執行書に署名をした
よ
うなものです。
フェミニストは「文化をつくるのは男の視線である」と考えました。ゆえに、
ファッ
ション・ショーやミス・コンテスト(しかも水着・・・)などは男の視線の最たる
も
のであり許すことが出来ないのです。
しかし、「文化をつくるのは男の視線である」と主張するときの敵はどこにいる
の
でしょう。敵は男?それともミス・コンに嬉々として出てくるバカ女?男に媚びる
専
業主婦?・・・・男の視線が許せないのなら、男を撲滅すれば解決されるの?・・
・
・
フェミニズムが「男の視線が文化を作った」と主張するとき、それが人々を惹き
つ
けるためには対抗モデルを作らねばなりませんでした。マルクス主義があれほどま
で
に人々の夢を掻き立てた理由は、マルキストが共産ユートピア世界を描いて人々に
高
らかに見せつけたからです。
しかし、「男中心文化」に対抗するモデルを作ろうにも、その対抗モデルが「女
中
心の文化」ではお話にもなりません。「男中心の社会」から「女中心の社会」へ移
行
したとて、単に逆のケースが生じるだけで問題は何も解決していないのですから。
※ (また余談になります)
「男の『視線』」とはなかなかに示唆的な言葉です。確かに文化は
視線によって作られるのですから。
ですが、この問題は「右手と左手を合わせたときに出る音は、右手
が出したのか左手が出したのか」というようなもので、思索の対象と
しては甚だ興味深いものではありますが、「良い音」を出そうとする
際に「どちらの手が音を出したのか」はどうでもよい問題です。
結局のところ、フェミニズムは男中心社会に対抗できるモデルを遂に作り上げるこ
と
ができませんでした。そのことは、「文化」を攻撃する方法を選択したときに必然
的
に定められた帰結と言えるでしょう。
自分の頭で自分の頭の中身を「想像」することはできます。しかし、自分の手で
自
分の頭の中身を実際にいじることが出来る人は・・・少なくとも私の知りうる限り
では
・・・存在しません。フェミニスト達は、「文化」を攻撃する際にマルキスト達に
も
加えて攻撃しました。「あなた達は封建制度を批判してきたけれど、あなた達だっ
て、家に帰れば封建的じゃないの。あなた達マルキストも男中心社会の中では、批
判
し続けた資本家達と同じ穴のムジナよ」と。
ですが、フェミニスト達は自らの視線が何に依っていたのかを考えたことがある
の
でしょうか。男中心社会の中で「男の視線」は人々の精神の深くまで入り込んでい
る
と主張するフェミニストの視線は何に依存していたのでしょう?
もっとも、自分の頭の中をいじることはできないまでも、自分の手で自分の髪を
切
るくらいのことはできそうです。その際には必ず「鏡」が必要になるはずですが、
フェミニスト達が持っている「鏡」とは一体何なのでしょう。私にはそこがどうに
も
解せないところです。
なぜなら、その「鏡」を見る視線は「私の視線」でしかないのですから。
男中心の社会の中でわれわれは「男の視線」でしかものを見ることができないと
フェミニストは主張しました。そして、その「男の視線」に換わるものを見つけら
れ
なかったとき、選択できる手段は「男の視線から脱却する」ことしかありません。
世の中が添加物だらけの食品で溢れかえっているとしましょう。スーパーへ行って
も
デパートへ行っても添加物だらけの食品しか売っていない。ならば、仕方がない。
自
分の食べる食品は自分で作ろう・・・フェミニストはこう考えたのです。世の中の
価
値判断が「男の視線」しか存在せず、その代替物がない以上は『私だけ』でも「男
の
視線」から脱却した価値観を持つべきだ。
それはすなわち「私の視線」で世界を見ることです。
ここに至ってジェンダー・フリーの素地が完成することになります。
===【付言】===
上記の『「私の視線」で世界を眺めること』は危険な行為であると私は考えていま
す。文化を攻撃する手段を選択したフェミニストは、自らの手で己の死刑執行書に
署
名をしましたが、『「私の視線」で世界を眺めること』を選択することは、自らの
手
で「己の住む社会」の死刑執行書に署名をするようなものです。
なぜなら、そこにはフェミニストが抱え込んだ内在的原因以上の爆弾が潜んでい
る
からなのですが・・・それに関しては次回に譲ることとします。