====【おさらいを兼ねてもう一度】====
前回の投稿が掲載された後に、「ちょっと意味が分かりづらかった」とのメールをい
ただきました。三省すると共に、補足としてもう一度説明をし、兼ねて今後への橋渡
しとしましょう。
もう一度、ジェンダー・フリーの主張に耳を傾けてみましょう。
1)「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異がある
2)「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異はセックスに由来していない
3)それらはイデオロギーによって作り上げられた差異である
4)よって、その差異はジェンダーである
5)ゆえに、わたしたちはその差異の規範から解放されねばならない
6)ジェンダーから解放されたわたしは、ジェンダーでない制度を選択する
7)ジェンダーから解放されたにも関わらず、わたしは、ジェンダーでない制度を選
択できない
8)すなわち、私はジェンダーでない制度を選択できる権利を喪失している
9)これは制度が私を不当に抑圧するものである
さて、これを(9)から始まって逆に読んでいってください。どうしても意味がつな
がらないところが二点存在します。
ひとつは、(2)→(1)です。ためしに(5)を起点として、逆から読んでみま
しょう。
「わたしたちは差異の規範から解放されねばならない(5)。なぜなら、その差異は
ジェンダーだからである(4)。ジェンダーとは、イデオロギーによって作り上げら
れた差異である(3)。そして、それらの差異はセックスに由来していない(2)。
例えば、「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異がある(1)。
(1)の出現の仕方に違和感を覚えるのは当然です。なぜなら、この(1)は否定さ
れることを目的として作り出された区分なのですから、出現の前提概念が本当は最初
に来るべきなのです((3)がその前提概念です)
そして、意味のつながらないもう一点は(1)〜(5)と(7)〜(9)です。
(7)〜(9)を逆に読んでみましょう。
「制度がわれわれを不当に抑圧している((9)に対応)」⇒(なぜなら)⇒「私は
ジェンダーでない制度を選択できるにも関わらずそれができないからだ((7)
(8)に対応)」
実は、この主張が成立するためには、ひとつの条件が不可欠となります。「ジェン
ダーを選択する『権利』を『私』は有しており、それは『みんな』が承認している」
・・・これを挿むことにより(7)〜(9)の主張は初めて有効となります。
実際にこれを挿んで主張を組み立ててみましょう。
「ジェンダーを選択する『権利』を『私』は有しており、それは『みんな』が承認し
ている」⇒「ところが、私はジェンダーを選択できるにも関わらず、制度のせいでそ
れができない」⇒「ゆえに、制度が私を不当に抑圧しているといえる」
(・・・これを命題【A】としておきましょう)
これで初めて論としてつながりを持ちます。これが(1)〜(5)と直接関係のない
ことは自明でしょう。(1)〜(5)は、他人がジェンダーを振りかざそうがしまい
が、とにかく、「私は」ジェンダーを選択しませんという意思表示です。これに対し
て(7)〜(9)は命題【A】にある通り、「ジェンダーを選択する権利がある」こ
とを出発点としています。
明らかに次元の異なる二つのものが同一平面上に並べられています。
翻って、命題【A】を眺めたときに、いくつかの疑念が浮かびます。
ひとつは「わたしは制度のせいで選択できない」という主張の中の『制度』って、一
体全体、何なの?という疑問です。
ジェンダーとは間違いなく『制度』です(その是非はさておき)。その制度はわれ
われの社会の隅々までを覆い尽くし、われわれの思考の基盤となっている(かもしれ
ません)。
その『制度』のせいで『私』はジェンダーが選択できない・・・と主張することは何を
主張していることなのでしょうか。
空から落ちてきたコーラーの空き瓶をアフリカの原住民が拾ったものの、その用途が
わからず、ユーモラスな行動を繰り広げるという映画(ブッシュマン)がありまし
た。(それに倣えば)コーラーの空き瓶を神の贈り物として神体にまでしてしまう原
住民に対して、白人はこう言うでしょう。「それは、単にコーラーの瓶なんだよ」
と。
『制度』のせいで『私』はジェンダーが選択できないと主張することは、この白人の
主張のようなものなのでしょうか?「あなたが自明と思っているジェンダー。それ
は、単にイデオロギーなんだよ」と。
結論から言えば、私は、これは違うと考えます。彼等は『制度』を否定しているよう
で、否定していません。彼等は『制度』を否定する振りをしながら、その『制度』下
で安住を望む者です。彼等は『制度』を否定しているのではなく、彼等は制度下にい
る『われわれ』を否定しているのです。
何となく「それってムシのいい主張だよね」と感じる彼等(彼女等)の主張の影には、
制度の否定よりも、「私を認めて!」との願望があるように思えてならないのです。
この問題についてはこの辺で止めておきましょう。追々明らかになると思います。
話を再び命題【A】に戻しましょう。これを眺めたときに、浮かぶ最大の疑念は「そ
んな権利を認めた覚えはないぞ」というものでしょう。
ですが、指摘されれば「おいおい、そんな権利は到底認められん」と反論できるも
のの、(1)〜(9)までの主張をさらりと言われれば何となく納得せざるを得ない
だけの力を、これらの主張が持ち合わせていることもまた事実なのです。
(その力こそが、意図的な『否定』の面目躍如と申すべきでしょう)
なぜ、この(1)〜(9)が力を持ち得るのか。この中には、指摘されれば「おいお
い、そんな権利は認めた覚えはないぞ」と反論必至のモノが巧妙に隠されているから
です。
その隠されたモノこそが(6)の「選択する」という言葉でしょう。
前回の投稿で私は『選択できない』という言葉の用いられ方について述べました。
『選択できない』という言葉が否定的価値を持つのは、何ゆえかと申せば、それは
『選択できる』ことに価値があるからに他なりません。
つまり、「私は選択できる」⇒「私は選択できるのだから選択する」⇒「私は選択で
きるから選択したにも関わらず、選択できなかった」⇒「これは不当である(否定的
価値)」という流れがそこに存在するのです。
命題【A】における出発点はまさにこれに該当します。「人はジェンダーでないも
のを選択する権利がある(=選択できる)」という出発点から、命題【A】すなわち
(7)〜(9)は進行するのです。
しかし、この流れは「私は選択できる」という出発点が妥当である場合においてのみ
有効となります。出発点が間違っている場合、ここから帰結されるものは到底認め難
いものになるでしょう。
意図的な『否定』とは、全く別個の一般命題を形を変えて挿みこむことで議論を成立
させようとする試みです。
上記の例で申せば、挿み込んだのは「人はジェンダーでないものを選択する権利が
ある」との一般化されたように見せかけられたとんでもない主張でした。
彼等(or彼女等)の主張は、必ず『私の問題』から始まって一般命題へ向かいます。
そして、その一般命題を再び『他人』へとフィードバックさせることになるのです
が、この一般命題は驚くほど内容が単純にできています。
「ジェンダーは否定されねばならない」・・・それだけの一般命題を振りかざして
彼等(or彼女等)は行進します。しかし、その一般命題を導く過程の中で挟みこまれ
た意図的な『否定』は冷静に見つめれば「ジェンダーは否定されねばならない」との
一般命題は単なる与太話に他なりません。
(少なくとも市民運動家が持ち出す個別のジェンダー例を崩すのは容易でしょう)
彼等の主張を聞くときには必ず次の点に留意していただきたいのです。
1)その主張の根底にあるものは、そのほとんどが『私』である
2)そして、その主張が、意見としてではなく他者へ向けられた主張として語られる
ときには『一般的な命題』として語られる
3)しかし、必ずそこには論理の飛躍が現れる
そこを突けば、彼等の主張は容易に馬脚をあらわすことでしょう。
(ちなみに、彼等の主張が会話において最も効力を発揮する所以もここにあります。
論理の飛躍とは、端的に申せば、『はったり』です。そのはったりは文章ではなかな
か効きにくいものですから)
その『はったり』を見抜く際に、拙文が一臂の力添えになるのであれば、望外の喜び
といえるでしょう。
====【付言】====
無意味な『等価式』と意図的な『否定』については、概ね述べたつもりですが、前回
の投稿において、私はふたつの問題を提起しました。
問題[A]:解放とは個人の解放であって、制度の変革とは何ら関係がないのではない
か
問題[B]:そもそも、ジェンダーと称される差異から「解放される」こと自体が可能
なのか
思いつくままに書くものですから、構成が滅茶苦茶になっています。
これを読まれる奇特な方々にはご迷惑をかけることを心苦しく思う次第ですが・・・
次回の投稿でこの二点について包括的に述べていきたいと考えております。