====【前回の投稿の概括】====
前回の投稿を概括してみようと思います。
1)ジェンダー・フリー推進者、特に市民運動家において
顕著に見られる語用がある
2)それは「無意味な『等価式』」と「意図的な『否定』
である」
3)無意味な『等価式』は、その名の通り、何も意味をな
さない
4)しかし、議論に重みを増す効力があるゆえに好んで用
いられる
====【無意味な『等価式』の抗い難い真の魅力】==
==
これからは『等価式』の持つ二つ目の魅力について考えて
いきます。
『等価式』で結ばれた事柄が『等価』でないことは明らか
です。ここでは「何が」等
価であるのかを考えるよりも「なぜに」等価なのかを考え
てみましょう。
なぜに『等価』なのか?・・・それは「私が等価であると
考えるから」に他なりませ
ん。
「私が「悪」であると思う事柄は私の中では否定されねば
ならない。そして、私の中
で否定されるべき事柄であるという一点においてこれらは
等しい。ゆえにこれらの事
柄はすべて『等価』なのだ」と彼らは主張しているわけで
す。
これは極めて魅力的な主張です。なぜなら、この世の中の
全ての事象は「私が気に入
らないからダメなのだ」と強硬に主張できるのですから(
まるでジャイアンです)。
この主張は、前回に述べた「議論に強みをつける」のそれ
とは比べものにならないく
らいに魅力的です。そして、その魅力ゆえに「議論に強み
をつける」と全く性質の異
なる効用をもたらします。
「議論に強みをつける」ために『等価式』を用いるという
ことは、何とかして相異な
るものを単一の価値観で押し切ろうという目論見です。そ
れに対して上記の主張は
「私が気に入らないから」という理由が先に出てきます。
つまり、「議論に強みをつける」ときには、「悪」とい
う橋渡しのツールは後付で
出現するのに対して、上記の主張は「悪」が先付けで出て
くるのです。
「天皇制は悪だ!」「戦争も悪だ!」と主張して「だから
天皇制=戦争なのだ」と主
張するのが前者ならば、後者は「私が気にくわないものは
悪だ。天皇制も戦争も気に
くわない。だから天皇制=戦争なのだ」と主張するのが、
後者です。
この例だけを見ると、さほど差異もないような気がしま
す。事実、左翼系平和主義
者の内面では前者も後者も同時に発起しているでしょう。
ですが、これがことジェン
ダー・フリーとなると、圧倒的に後者が優越的な働きをし
ているように私には思えま
す。
なぜ、私はそう思うのか・・・これは、この拙文を掲載し
ていただくHP『翼』の事
例を見て確信に至った次第ですが・・・次はその辺りを見
ていきましょう。
====【「何でも持ってきなさい」という甘いささやき
】===
革命時においては、高らかに叫ばれるスローガンが必ず必
要となります。そしてその
スローガンはできるだけ曖昧な形であればあるほどよろし
いでしょう。曖昧であれ
ば、その革命に進んで参加する人たちが「各々の」欲望を
投射できるからです。
「すべての人々に自由と平等を!」との革命スローガン
が魅力的である理由は、誰
もが「自分の欲望」をそこに投入できるからです。ある人
にとっては「Aという権
利」、ある人には「Bという権利」、果ては「到底認めが
たい権利」・・・様々なもの
がそこには渦巻きます。だからこそ、革命が一段落ついた
ときに人々は言い得ぬ失望
感を感じるわけです。「なんだ、オレのやって欲しいこと
を全然してくれないじゃな
いか・・・」と。
さて、ジェンダー・フリーもひとつのスローガンを人々の
前に示しています。です
が、それは前回の冒頭に掲げたものではありません。あれ
は表向きのスローガンで
す。
「あなたが気に入らないものをここに持ってきなさい」・
・・これがジェンダー・フリー
の掲げた真のスローガンです。
最近のジェンダー・フリーの活動を見ていると、それが一
体ジェンダーと何の関係が
あるのかと訝しく思われるものが多々あります。その実例
に関しては、この拙文が掲
載されている当HPに詳細なものがありますので、そちら
を読まれていただければ得
心がいかれるでしょう。「私の気にくわないもの」を寄せ
集めれば、必然的に統一性
の欠けたものができあがることになります。
そして、ジェンダー・フリーが「肉体的性差以外は認めな
い!」と先鋭的になるのも
欲望を寄せ集めることと無縁ではありません。
「あなたが気に入らないものをここに持ってきなさい」と
いうスローガンは「あなた
がやって欲しいと思うものをここへもってきごらんなさい
」という革命のスローガン
と表裏一体の関係に立ちます。ならば、「あなたが気に入
らないものをここに持って
きなさい」というスローガンも「すべての人々に自由と平
等を」とのスローガンと同
じく曖昧にならざるを得ません。
しかし、曖昧であっては根拠に欠けます。そこで、最も先
鋭的な根拠を持ち出した結
果が「肉体的性差以外は認めない!」に他ならないのです
。この根拠に従えば、肉体
的性差以外の全ての差異は(性差以外でも)、文句のつけ
ることのできるものに変化
します。
つまり、基準値を限界まで下限に設定することにより、
器の中にいれることのでき
るキャパシティーを最大限まで引き上げたのです。
「あなたが『悪』と思うことは確かに『悪』なのです」⇒
「だから、あなたが『悪』
と思うことをわれわれのところへ持ってきなさい」⇒「ジ
ェンダー・フリーの元には
あなたのような人がたくさん集まっています」⇒「あなた
の考える『悪』をあなたが
持ってくれば、ジェンダー・フリーという思想は、あなた
の考える『悪』と他の人た
ちの『悪』を統一的に『悪』としてあげます」
実に・・・甘美なささやきです。
新興宗教に通ずる甘美さ以上のものを感じませんが、これ
にころぶ人が後を絶たない
理由もわからぬでもありません(だからといって承服する
こともできませんが)。
『ころぶ』といえば、これは余談ですが、社会学に対して
抱く疑問があります。
なぜ、社会学はこれらの人々、ジェンダー・フリーに『こ
ろぶ』人たちの生態に光を
当てようとしないのでしょう。「人々はなぜ市民運動に『
はまる』のか」・・・
なぜ人々は新興宗教にはまるのかという論考は散見します
が、なぜか学問の府に住む
お歴々は市民運動に対して腰砕けです。
ひょっとして、象牙の塔のお歴々自身が活動家だからで
しょうか?それとも学内に
いる活動家の教授連に遠慮をして事なかれ主義ですませて
いるのでしょうか?いずれ
にしてもつまらぬことです。
さて、ジェンダー・フリーは人々の欲望をかき集めるため
だけの受け皿です。そこに
存在するのは「私の気に食わないもの」の集合です。どこ
まで行っても「私の」「私
の」「私の」・・・
このままではあまりにも受けがよろしくなかろう、一般的
命題としての通有力がない
ではないか!と考えたのでしょう。「これは『私』の繰言
ではありません。みんなの
問題なのです」と主張しなければならないと思い立ち、別
な手段を講じたわけです。
それが「意図的な『否定』」です。つまり、「無意味な『
等価式』」がジェンダー・
フリーへの勧誘の手引書、内向きに書かれた誘いのための
ものならば、「意図的な
『否定』」は、外向きに書かれた自己正当化のものといえ
るでしょう。
この「意図的な『否定』」については、次回の投稿に譲る
ことにします。