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初めて投稿します。“はるぽん”と申す者です。

【はじめに】

この投稿は夫婦別姓論を扱ったものです。結論としては夫婦別姓論は誤っている点に帰結することになりますが、「夫婦が別姓になる」ことを批判するのではなく、夫婦別姓賛成論者の手法が「制度を変える方法」に則っていないことを批判することになります。すなわち、夫婦別姓賛成論者が制度の改革者ではなく破壊者に過ぎないことを述べることが主目的になっている点を予めご了承ください。

さらに、数回に分けて投稿することになる旨もご了承いただけると幸いです(途中ま で書いてみて、意外と長くなりそうなので・・・)。


【夫婦別姓はいかなる改革か】
「現在の女性の中には夫婦同姓制度により多大なる精神的苦痛を被る人たちがいます。その人たちのためにも夫婦同姓を認めていただきたい。私は、なにも全ての人に夫婦別姓を強制することを欲しているのではありません。夫婦別姓を望む者だけに認めてもらえれば良いだけのことなのです。」

斯くの如き論法を夫婦別姓賛成論者は用います(情に訴えること大なる論法でありまして、これにうっかり反論しようものならば、鬼畜・人非人と罵倒されそうですが・・・)。

さて、「情に訴えかけること大」である旨を申しましたが、何故に情に訴えかけるのでしょうか。そのキーワードは「別姓を望む者だけに認めてもらえれば・・・」という下りです。これはすなわち「貴方には迷惑をおかけしません」という下敷きがあって初めて成立するものですが・・・果たして、本当にわれわれに迷惑はかからないのでしょうか。

制度を変えて規制を緩やかにする方法には大別すると
1.限定解除
2.全面解除
の二通りがあります。前者は規制を緩やかにしながらも、なお、特定の者のみに行為を許可する方法であり、後者は、まさに規制を全面的に取り払うのです。

果たして、夫婦別姓賛成論者の前述の主張する制度改革は、限定解除・全面解除のいずれなのでしょうか。

一見すると、夫婦別姓論は、「望む者だけに認めてもらえれば・・・」云々のくだりのみを見れば限定解除のようにも見受けられます。

しかし、夫婦別姓は「望む者だけに認めてもらえ」るからこそ制度の全面解除なのです。

  例えば、銃の解禁を想定しましょう。現行の法制下において銃の携帯・使用は警察官・自衛官等並びに免許を有する民間人に限定されています。この規制を全面的に解除して誰でも銃の携帯・使用が可能になるような改正をした場合、何が生ずるのでしょうか。全面解除後においては「望む者が銃の携帯・使用」ができるようになるのであり、それは誰でも銃の携帯・使用ができるようになることを意味します。

つまり、「望む者だけに認めてもらえれば良いのです」という文句はレトリックの巧妙なすり替えであり、夫婦別姓は現行制度の全面解除に他なりません。

全面解除とは現行の規制を根こそぎ取り払うことです。ならば、本当にそれにより夫婦別姓論者が主張するごとく「皆さんにご迷惑はおかけしない」のでしょうか。

【インターミッション】
夫婦別姓賛成論者と議論をしていて非常に噛み合わない経験を幾たびも(極言すれば毎回)味わってきましたが、その砂鉄を噛むような思いから「議論が噛み合わないのは、議論のルール・・・すなわち『制度を変えるための議論のルール』がそもそも成立していないことに所以するのではなかろうか」との考えに至りました。

 憲法改正であれ、自衛隊廃止であれ、すべからく制度を変えるときには踏むべき議論のルールがなければ、われわれは互いに互いを罵倒しあうだけで終わってしまうのではなかろうか(私は気が小さいので罵倒されることになれていないのです)。

 その議論のルールを考える際には、嫌が応でも制度そのものについて考えねばなりません。

【2つの制度】
「制度」というタームは実に茫洋としていて定義しづらいのですが、「その制度をわれわれはどのように変革させるべきか」という視点から眺めると、概ね2つに分けることができます。

(1)「かくあるべきである制度」(合目的論的制度=“sollenの制度”)
(2)「かくあるのが当然である制度」(=“seinの制度”)

前者は、まさに合目的論的な制度です。とあるマンションで清掃当番を決めようとしましょう。その決定の前段階として「マンションをきれいに保つ」という目的がはっきりと存在しています。すなわち、「目的→制度設計→制度の効果」が明瞭に提示されるのが、合目的論的制度の特徴なのです。
  これに対して、後者は制度の目的を問われたときに「それって当たり前じゃないの?」という反応が(反射的に)返ってくるところに最大の特徴があります。

1.なぜ子どもは学校に行かなければならないの?
2.なぜ親と子は同じ家に住まなければならないの?
3.なぜひとりの男の人はひとりの女の人としか結婚できないの?

例を挙げていけば切りがありませんが、このような問いに対して回答を積み重ねていっても循環論に陥るか、単なる事実の積み上げに堕するのみであり、結局のところ、「それは当たり前のことなんだよ」という回答が唯一有効なのです。

“seinの制度”も、制度である以上は制定時には何らかの目的があったはずです。しかし、それは永い年月を経て、一般化される過程の中で人々の意識の中に埋没してしまったのです。

ちなみに夫婦同姓制度は上記二つの制度のいずれかを考えた場合、明らかに“seinの制度”でしょうし、それは夫婦別姓賛成論者自身が認めるところです。そうでなければ、「皆さんにご迷惑はかけませんから、望む者だけに認めていただきたい」という文句は出てきません。この文句には「皆さんにとって夫婦同姓制度は当たり前なのでしょう・・・」という文句が冠として乗っかっているのですから。

(さらに余談ですが、なぜドイツ語を用いたかと申しますと、英語だと“must be”と“be”になってしまい通りがよくない、??儻谿奮阿巴里辰討襪里魯疋ぅ銚譴世院ΑΑΔ箸いγ噂磴瞥?由からです)

【制度を評価する方法】
制度を変えるためには、その前段階として制度を評価する過程を経る必要があります。評価の段階で制度に内在する害悪が確認されて、初めて、制度を変える必要性が出てくるのです。

その評価の方法に関して、上記二つの制度は異なる手法を用いなければなりません。

合目的論的制度は制度の目的(=制度趣旨)が明確ですから、「目的に合った結果が生ずるか否か」を制度評価の基本的指針とすることができます。つまり、結果と目的が齟齬をきたすことが制度を変える動機となりうるわけです。前述したマンションの清掃当番を再び持ち出せば、「マンションをきれいにする」との目的で月1回の清掃日を定めたにも関わらず、所定の目的を達成できなかった場合に、「それじゃ、月2回の清掃日にしましょう」と変更する場合がこれに該たるでしょう。

では、“seinの制度”に対する制度評価はいかなる方法で行うべきなのでしょうか。

“seinの制度”は制度の目的を喪失しているわけですから、合目的論的制度に対する評価と同じ手法を用いることはできません。

そして、結論を先に申せば、“seinの制度”の中で生活を営む者は“seinの制度”を評価することはできないのです。
先に“seinの制度”の特徴は「それって当たり前じゃないの?」という応答がなされる点にあると述べました。「それって当たり前じゃないの?」という応答は一見すると「それは良い制度だ」との価値判断を示しているようですが、その実、良いとも悪いとも言ってはいないのです。

水槽の中に金魚を例に挙げましょう。実はこの水槽の中の水は作為的に黄色に着色してあります。この水槽の中で生まれ、育った金魚はこの水の色が黄色であることを認識できません。よしんば、認識したとしても「それって当たり前のことでしょ?」との答えが返ってくるでしょう。

“seinの制度”はそのような制度なのです。

ですが、全ての制度は必ず制度疲労を起こし、現実にそぐわなくなる日が到来することも事実です。ゆえに“seinの制度”を評価し、無駄なく変える方法を考えておかねばなりません。

評価できない“seinの制度”を評価して変える方法はいかにあるべきか・・・これは次の投稿に譲ることにします。

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