E-listBBSSearchRankingPowderRoom-RoseGo to Top
クリスティーナ・ホフ・ソマーズ著
紅緒様訳

●「少年達に仕向けられた戦争」


方向を間違ったフェミニズムがアメリカの青年達に与えている害毒とはいかなるものか


この本の中で、著書の要約として、次のような文章が添えられている。 「今、アメリカでは男に生まれるのは損な時代である。今世紀も終わりに近づき、アメリカの少女達を代表する出来事がアメリカ女性サッカーチームの輝かしい功績であるのに対して、少年の象徴的な出来事といえばコロラドのコロンバイン高校で起こった大量銃殺事件であった。 アメリカ社会の少年達は大変な危機に晒されているようである。それにもかかわらず、名の知れた研究では学界の専門家達がこぞって『自尊心の減退に悩まされているのは少女達だ。』と発表している。彼らによれば、学校やその他少年達を優位づける構造の上になりっている社会のあらゆる場において更なる援助を必要としているのは少女達であると言う。少年達の問題は、すなわち、少年として生まれたことであると専門家達は言う。彼らによれば、我々は少年達の性質を変える必要がある。すなわち、少年達を少女のように変質させなければならないのである。 こういった論争は綿密な吟味に耐えうるものではないと、この挑発的かつ魅惑的な著書の中でソマーズ女史は訴える。著者はこういった理論の最先鋒的存在である学者、キャロル・ジリガンやウィリアム・ポラックの研究を分析し、この理論は科学的根拠を欠いていることを暴いている。少女が直面する危機などありはしない、とソマーズ女史は断言する。少女達は学業面で少年達を凌いでいるし、自尊心の持ち方について も少年のそれと大差はない。少年達は読み書きの面で少女達に遅れをとり、大学進学率も少女達に比べて低い。
この『少女の危機』論は一部のフェミニストに利用され、これには彼女ら特有の女性を優位にするための外交政策がみなぎっている。この理論の下、少女達に援助を与えるように見せかけて、実は少年達を罰する(しかもしばしばただ男らしくあるというがために)方針を多くの学校が採用してきた。ソマーズ女史は確かに少年達は助けが必要であるが、その助けとはこれらフェミニスト政策により少年達が受けてきたもの ではないという。彼らが必要としている助けとは、学業面で少女達に追いつけるようにすることであり、愛情や躾、尊敬、道徳的指導である。彼らが必要なのは少年の本質とは何かという正しい理解であり、これが急務である。少年達は男らしさからの解放など必要ないのである。」

1990年にハーバード大学教授キャロル・ジリガンの提唱した「少女の危機」論--アメリカの少女は思春期に差し掛かった頃から男性社会のからくりに気がつき始め、学校を含めた社会のあらゆる場面で自分達が冷遇されているのを感じ、それゆえに自尊心を失い、心理的、社会的な危機に晒されている--はフェミニストや進歩的文化人達にマスコミや学界で支持され、広められ、ついには教育界を制覇するまでとなった。今や少女の危機」論は定説となり、教育界では文部省を篭絡したフェミニスト達の手によって極端な女子優遇、男子冷遇政策が実施されるまでとなった。
しかし、この「少女の危機」論は社会科学的観点から見て客観的かつ信用のおけるデータに著しく欠け、その実体は特定の少女達の私経験・私見の寄せ集めの上に成り立つ虚論であると著者は指摘する。実際、統計学上で学業面でアメリカの少年達は少女達に遅れを取っており、大学進学率も低いことが証明されている。また、生活面・精神面・行動面で問題のある子どもも女子よりも男子の方が多いことも明らかにされている。それにも関わらず少年達は社会的強者としてみなされ、特権を与えられている者としてフェミニスト達に敵視され、彼らの真の問題は無視されているか全くのお門違いの方法(少年達の問題は男らしさを押し付けられた結果であり、少年達を救うためには彼らを男らしさの呪縛から解放するべきである、すなわち少年の女性化を推し進めるべきである)で解決されようとしていることにソマーズ女史は警鐘を鳴らしている。アメリカの少年達が直面するこの状況はまさに「少年達に仕向けられた戦争」であり、ソマーズ女史はこの戦争に立ち向かうべくして立ち上がった戦士といったところであろう。

この戦争に勝ち抜き、少年達を救うためにソマーズ女史はまずアメリカの少年達の現状を客観的データをもって提示し、「少女の危機」説の虚構を暴いたうえでフェミニスト達に牛耳られた文部省が推し進める学校教育の実態を暴露し、その常軌を逸した奇矯さを世に知らしめている。更に、「男らしさからの解放」説に立った男子救済運動の矛盾を指摘し、このような方法では少年達は救済されるどころかますます窮地に立たされることを力説している。
そして、女史は少年達の学業的遅れの克服には男子と女子の学習スタイルや適性・嗜好などの違いを理解し、それらを考慮して作られたカリキュラムを実行すること、男子校や男子のみのコースも認可すること、リベラル教育では忌避されてきた基礎学力重視の反復学習を取り入れることなどが有効であることを実際の成功例をもって訴えている。
(因みに、こういった教授法は現在のアメリカの社会では
“Politically Incorrect” 「政治的に正しくない」としてフェミニスト達からは非難や攻撃の的であるが、これらの伝統的な教授法の成功例は豊富である。実際、アメリカと同じようにイギリスでも男子は学業的に女子より劣っているが、イギリスはこの男子の学業不振を社会問題として捉え、前述したような教授法を採用するにより改善に向かっている。)
また、生活面で問題のある少年は男らしさを押し付けられた閉塞感から問題行動を起こすのではなく、幼いころから善悪の区別を教えられなかったためであることをコロンバイン高校銃殺事件の加害者の少年や性的犯罪を犯した少年集団の生活背景を紹介することによって力説している。つまり、こういった少年達を救うのは「男らしさからの解放」ではなく、躾や道徳教育の徹底であり、それはすなわち男らしさの再確認に繋がると主張している。(真に男らしい男とは責任感と弱者をいたわるジェントルマン精神を持つ男である。)

反ジェンダーフリー教育の観点からこの著書について特筆したいのは第三章の“Guys and Dolls”(男と人形)である。この章は、フェミニストのプロパガンダがどのようにアメリカの公教育の場で具現化されているかを余すところなく紹介しており、日本でもジェンダーフリー教育の蔓延に伴い、いつ実施されるかわからない事例も多い。これらの事例を以下、紹介するが、これらは特に男の子を持つお母さん方に読んでいただきたい。そして、このような教育をご子息に施された時のことを想像して、このような教育に賛成か反対かご判断いただきたい。

この章は、著者とフェミニスト弁護士のグロリア・オールレッド女史とのテレビ討論から始まる。オールレッド弁護士はボーイスカウトに参加することを認められなかった14歳の少女の弁護人として、ボーイスカウト等の同性のみで構成されるスカウト組織は「ジェンダー・アパルトヘイト」だとして糾弾している。(因みに、15歳以上の少女ならエクスプローラー・スカウトという男女両用のスカウト組織に参加することが可能である。)これを受けてソマーズ女史は小さな子どもは男の子と女の子では好みや行動パターンに相当な違いがあるとして、同性によるスカウト活動を弁護している。この際、ソマーズ女史はハスブロ・トーイという有名玩具製造会社の調査結果を提示している。それは、この会社が男女兼用のおもちゃを開発しようとして子ども達の遊び方の実態を調査したものであるが、それによると、同じようにままごとセットのある部屋に置かれても、女の子は人形の着せ替えをしたり、キスしたりままごとをして遊んでいたのに対し、男の子は人形の乳母車を家の屋根から滑らせて遊んでいたというもので、ハスブロ・トーイのマネージャーは、「結局、男の子と女の子は違う。」という結論に達した。これを受けたオールレッド弁護士はこの調査結果にショックを受けたように見えながらも、男の子と女の子は先天的に違うという見解は頑として否定し、更には「人形の家の屋根から乳母車を滑らせて遊ぶような男の子が いるとしたら、そのような行為は暴力への傾向であるから、できるだけ小さいうちから人形で正しく遊べるように男の子を教育するべきである。」と言い放った。
このオールレッド弁護士の「男の子の女性化」教育はまさに教育の場ではすでに実践されている。これらの先鋒的役割を担うのは、ハーバード大学院教育学部、ウェスリー大学女性研究センター、文部省である。 ウェスリー大学女性研究センターは1998年にアメリカ北東部に住む教師や管理職のための「男女のためのジェンダー平等」と銘打ったセミナーを主催したのであるが、(このセミナーに参加すると、教師達はキャリアアップのためのクレジットを稼げるシステムになっている。)この時にナンシー・マーシャル教授は「子どもは生まれた時には性別については何の意識も持ってないものの、2歳から7歳の間に社会が要求する男性像、女性像を学び取り、『ジェンダー組織』なるものを形成し、自分の性に沿った性的役割を甘受するようになるのであるが、この時期は同時に変換可能な時期でもあり、この時期にこそ性別偏見を打ち破る教育を施すべきである」と説き、ハイヒールやドレスで女装させられた保育園児のスライドを見せ、このぐらいの年齢の男の子はスカートをはかされても何の抵抗もなく、全く自然に受け入れると指摘している。また、男の子にままごと遊びをさせることも奨励し、このぐらいの年齢は男の子同士、女の子同士で遊ぶのを好むがゆえに性別偏見を形成しやすいので強制してでも男女混合で遊ばせるべきだと指導している。

また、アメリカの文部省も「男女平等教育」に加担しており、文部省委嘱のパンフレットには次のような記述がある。「我々は幼児期においては肉体的にも精神的にも知識的にも男女差は最低限であることを知っているにも拘らず、実社会においては性的役割を強調する形で子ども達を社会化しようとする傾向がある。」実際にはこれを論駁する科学的研究結果は枚挙に暇がないにも関わらず、そのような科学的根拠は無視し、ハスブロ・トーイの調査結果に見られるような幼年期の遊び方の男女差は家父長制度下の悪しき社会化によって形成されたものであると結論付けている。それ故に、害のある性別役割を打ち砕く絶対唯一の方法は乳児期の頃から性的役割を助長するものを排除することである、というのを主旨とする「男女平等の家族のデイケア作り」というデイケア教師のためのカリキュラム・ガイドには次のような事柄が推薦されており、最早全体主義の様相を呈している。
男の子に人形遊びをさせること
  男女混合で遊ばせること
バービーやGIジョーのような極めて女性的・男性的な人形は避けること エプロンをして箒を持っているママ・ベア(熊の人形)も避けること 有名な童謡の“Jack And Jill” を“Jill and Jack”にすること
子どもがお医者さんごっこ等でも、女子が医者の役を、男子が看護士の役をするのを薦めること
また、急進的フェミニストの代表的組織として有名なAAUW(American Association of University Women「アメリカ女性大学連盟」)主催のワークショップに触発されて、学芸会の劇でキャスティングを男女間で交換したり、性別にとらわれないで選出した結果、子ども達の性的役割に対する意識改革に大変な成功を収めたと報告する教育者もいる。彼女らは、子どもと言うものは教師の期待に沿うために、教師からの糾弾を避けるために教師の喜ぶような言動を取ることがしばしばあるという事実に気づかないのか、とソマーズ女史は言う。このような洗脳まがいの教育は、中国文化大革命を彷彿させる、とも。

人形遊びを強要された男の子がそれに抵抗するのは自然なことであろう。マイラ・デイビッド・サドカー夫妻は、「公正の失敗」という著書の中で、メリーランドのある小学校四年のクラスでの出来事を記述した。このクラスでは、子ども達が新聞の人生相談欄のアドバイザーとして、人形をほしがる7歳の男の子の父親にアドバイスをする、という設定で授業が行われていた。9歳のアドバイザー達はこの男の子に対して 全く同情的でなく、そこで教師がフェミニスト本として有名な「ウィリアムの人形」という、人形をほしがる男の子の話を読んで聞かせた。(この話を要約すれば、ウィリアムは人形をほしがったが父親はそれを拒み、代わりにバスケットボールや電車のおもちゃに興味を持たせようとしたがウィリアムの心は変わらなかった。そこへ祖母がやってきて、父親の無理解を非難した後でウィリアムをおもちゃ屋へ連れて行き、 ウィリアムがほしがっていたくるくる睫毛の白いドレスと帽子をかぶった赤ちゃん人形を買ってあげ、ウィリアムは大いに喜んだ、という話である。)この話を聞いた後も子ども達の意識は変わらず、ブーイングの嵐となり、教師はその場を納めるのに苦労したと報告されている。サドカー夫妻は9歳の子どもがこれほどまでに不柔軟に伝統的な性的役割に固執していることに落胆している。
ところで、この「ウィリアムの人形」はしばしば劇の出し物としても使われており、二人の男の子の父親であるボストン大学教授のグレン・ラウディー氏が息子が出演したこの劇を見たときの感想をこのように述べている。「まず第一に、男の子が人形で遊びたがらずに、その代わりに野球をしたがることのどこが悪いのですか?これに関して修正の必要など全然ないと思うのですが。」
このラウディー氏の意見は一般の父親、母親にとってごく普通の感覚である。ところが、ジェンダー学者はこのような意見を「反動」だの「古臭い態度の表れ」だのと言って非難し、攻撃する。我々こそが正しい、幼児期から性的固定感を打ち破ることこそが社会を改革することへと導く、と妄信しながら。
このような教育がアメリカの保育所や小学校で税金によって施され、このような思想を広めるワークショップや教育マニュアルが税金で催されたり編み出されたりしている事実を自分の小さな息子を学校に送り込む多くの親達は気づいていない。

もう少し年長の中学校・高校ではどうか。ペギー・オレンスタイン女史は著書「スクールガールズ」の中で、サンフランシスコの中学社会科教師ジュディー・ローガン教諭の授業内容を男女平等なクラスとして紹介している。(ローガン教諭は、その教育法により名だたるフェミニスト達から賞賛の嵐を浴びている。)尤も、ローガン教諭の教育法は、男女平等というよりも完全な女尊男卑であり、生徒達に人気はあるものの、男子に対してあまりにも不公平だという意見も多い。
例えば、6年生のクラスで、有名なアメリカ黒人になりきってものまねをする、というのがあった。男の子は自発的には当然女性人物を選ばないから、男の子には女性人物のまねを一回、男性人物のまねを一回することを課した。当然、ものまねをしているうちにクラスは失笑してそれにつられてものまねをしている本人までもが笑い出す場面もあったが、それをローガン教諭は諌めた。その直後、ある男の子がアニタ・ヒル (有名なセクハラ訴訟のヒロイン)の役を完璧にこなした。ローガン教諭はこれにいたく感動し、その男の子に向かって、「ヒル博士、私はあなたを深く尊敬します。」と言い、クラスメートに向かって「さあ、皆さん、『彼女』に盛大な拍手を!」と呼びかけた。そして、「あの少年は、ほんの2,3分ではあったものの、セクハラを受けた女性としての経験をすることができたのよ。」とのコメントをした。

また、ある時は授業が脱線して話題が男女間でのセクハラ論争となり、女子達が男のセクハラについて怒りが白熱し、男子達を責め始めた。(ソマーズ女史はこれこそがローガン教諭の「隠されたカリキュラム」であり、女子の間で男子に対する嫌悪感や敵対心が育っているということは、彼女の教育が功を奏していることの証左であると指摘する)その時に男子の一人が「確かにそういう酷い男もいるけど、みんながみん なそうじゃない。いい奴だっていっぱいいるじゃないか。」と言い、また女子の間からも「女子だって男子に嫌がらせするじゃない。」と男子弁護の声が上がったが、ローガン教諭はここで「セクハラがこの授業のトピックじゃないのよ。」といって議論を打ち切り、本題に戻ったが、また後にセクハラの話題に戻し、本来の意味の「隠されたカリキュラム」--女性を被支配者として教育するカリキュラムがアメリカの教育界には潜在する--と絡めて説明を始めた。
ローガン教諭のクラスでは、こんな出来事もあった。「私達が尊敬する女性」と称して、生徒達が尊敬する女性の絵をキルトに刺繍し、パッチワークを作ると言うプロジェクトで、男子生徒の一人がモニカ・セレス(1993年に試合中に暴漢にナイフで襲われたテニスプレーヤー)の握るラケットの上に血の付いたナイフを刺繍した。ローガン教諭はこれを諌め、やり直しをさせたが、ソマーズ女史はこの男子生徒の作品は彼女のクラス内で抑圧されている彼を含む男子生徒の気持ちの表れではないかと解釈している。

このローガン教諭ほど極端でなくても、アメリカの学校ではフェミニストによるワークショップの影響で、時には無自覚のまま男子を女性化する方向に着実に向かっており、多くの学校で典型的な男性的行動を監視・制限し、「男女平等」という名の下、男子を女子が好むような活動に従事させようとしている。
例えば、マサチューセッツ州のフィスキ小学校と言うところでは、男子にもキルト刺繍をするのを奨励し、対照的に、男子だけで運動場でのボール遊びをするのをよしとしない。また、この学校では校長は“principal”ではなく“princessipal”と呼んでおり、(principalという言葉の中には王子、すなわち男性を表す言葉を含むので、女性の校長ならprincessipalであるべきだ、とう理屈らしい。余談であるが、フェミニスト達はこういう言葉のすげ替えが好きなようだ。他の例を挙げると、フェミニストの間では「歴史」を“history“(彼の物語)から“herstory”(彼女の物語)に、「セミナー」を“ovuner” (seminar という言葉は “semen”、 すなわち精子を連想させるので、その代わりに卵子を表すovumを文字った 造語)と呼んでいるらしい。)この学校の正面ホールには小学5年生の男子・女子による有名な女性をモチーフにしたキルト作品が展示されている。
また、ニュージャージーのある小学生2年生の男子は、自分の誕生パーティーへの招待状を学校で手渡すことを担任・校長により禁止された。彼は男子しか招待するつもりでなかったため、この行為は男女差別であると判断されたからである。
ノース・キャロライナのある小学校では、子ども達は昼食時に男女別々のテーブルに着き、休み時間には男子はたいていボール遊びをし、女子は友達と談笑をするというごく普通の光景がノースキャロライナ大学のフェミニスト教授達の槍玉に上がり、この状況を「改善」するようにとの干渉を受けた。
そして、男子の活発さは改善を要する悪しき性質とみなされ、アメリカ全土で休み時間に走ったり飛び跳ねたりするのを禁止する学校が増えている。フィラデルフィアでは休み時間は建物の中で監視の中でおとなしく遊ぶような活動に制限されたし、アトランタ州に至っては1998年に休み時間そのものを廃止してしまい、新設校には運動場がない。

こういう教育方針を推進するフェミニスト達は、「子どもは生まれた時は男女の区別など理解できず、好みや行動なども真っ白な状態で生まれてくるが、社会的な制約を受けてジェンダーを形成する」との説を教条主義的に信奉しており、男の子もこのジェンダーの呪縛から解放してあげることが男の子にとっても幸せであると妄信している。(これは、フェミニストだけでなく、男性学を推進する男性学者の中にもウィリアム・ポラックやロナルド・レバントのように同じような主張をしている者がいる。)
しかしながら、こういった子どもの先天的ジェンダーフリー説は脳科学の観点から見れば全くの間違いである。2000年にベストセラーとなった「話を聞かない男、地図が読めない女」で紹介されたように、男女の脳は違うため、男女間に特徴的な得手不得手が生まれるのである。これはもちろん一般論であり、例外もあるのもいうまでもないが、この例外にしても医学的根拠がある場合も多い。例えば、女子の中には副腎性器症候群という、胎児のうちに男性ホルモンを多く浴びたために起こる先天的なホルモン異常を来す病気を持つ者がいるが、この女の子達は行動や思考パターン、好みが男子のそれに近くなるという。

このように医学的に男女の違いは先天的なものであるという研究結果に対してフェミニスト達はどのように反応するのか。彼女達はこのような研究そのものを差別的、不道徳的として非難し、排除しようとする。確かに、欧米には男女の違いが政治的に利用されていた不幸な過去が存在し、不心得な男性優位主義者がこのような研究結果を今後とも利用する可能性もあるかもしれない。しかしながら、ソマーズ女史は力説する。男女の真の違いに目をそむけ、教条主義的に男らしさ、女らしさとは社会的・文化的に形成されるものにすぎないと主張することはより一層危険なのではないかと。
生まれついての性質を変えようとするのは侵害的であり、権威主義であり、全体主義である。男子が活発な遊びが好きで何が悪いのか。これは改善すべきことなどではない、と。

自称フェミニストであるソマーズ女史は昨今の方向を間違えたフェミニズムを苦々しく思っており、昨今のフェミニズム思想の中で平等と同質が混同されていることに憤りを感じている。女史は、人権保障を人間の性質の基本的な事実を拒否することに頼ってはいけない、我々はすべて個々の違いに関わらず権利を有するのだ、と述べ、40年代の保守的フェミニストで国会議員であったクレア・ブーズ・ルースの次のような言葉を引用し、現代こそがこの言葉の意味が吟味されるべきではないか、と述べてている。

今こそ、社会における女性の役割についての問題を母なる自然にゆだねるときである。この母なる自然とは、欺くことができない。女性には男性と同じ機会を与えるだけでいい。そうすれば、女性は何が自分の性質にふさわしいか否かすぐに判断するだろう。女性が本来持つ性質の中に存在するものであれば彼女達はおのずとするだろうし、それを阻むことは誰にもできない。しかしながら、自分の性質に相反するものであれば、いくら機会を与えられても彼女達はしないだろうし、またそうしろと強制することも不可能であることはすぐに気が付くであろう。

今、アメリカの少年達は方向違いのフェミニズムに毒され、多くの問題をはらんでいる。少年達を救うことはすなわちアメリカを救うことである。しかし、それは昨今のフェミニスト達が主張するように男らしさから少年達を解放することを意味しない。
ソマーズ女史は今こそリベラリズムの渦中で軽視され、忘れ去られた伝統的な躾と道徳教育を施し、責任感のある真の男性を育成すべく少年達を導くべきではないのか、と説いている。また、少年特有の思考・行動パターンや好みも男性優位主義社会の悪しき結果ではなく、先天的な要素によるところが大きいことを認め、それらを考慮した学習方法やカリキュラムを持って少年達を教育すべきである、と主張する。
かつてヒッピー達が衛生に気遣うこと(風呂に入ったりシャワーを浴びたり、歯を磨いたり髪を整えたりすること等)は中流社会の悪しき風習であるとし、これを忌避した結果、ありとあらゆる疫病に悩まされ(このうちのいくつかは現代のアメリカという先進国では医者も診たこともないようなものであった)、衛生観念の重要性を再発見したように、(この例を小説家のトム・ウルフは“The Great Relearning”「偉大 なる再学習」と呼び、 ソマーズ 女史もこの言葉を借用し、20世紀の社会主義の崩壊もこの「偉大なる再学習」の例である、と述べている。)アメリカ社会は伝統的価値観や道徳・常識等を過去の遺物として切り捨ててきたが、その代償として少年達が危機に晒されている。この事実にそろそろ目覚め、「偉大なる再学習」をすべきではないか、とソマーズ女史は結んでいる。


トップへ戻る


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ