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===【はじめに】===
今回の投稿から、ジェンダー・フリーが理論として何を求め、その理論の根拠と実践の間の飛躍について考えてみたいと思います。その過程で「意図的な『否定』」が出現します。

====【ジェンダー・フリーは何を求めるのか】====
ジェンダー・フリーがセックスとジェンダーを区別していることに関しては改めて申し上げるまでもないでしょう。
 さて、ここで重要なことは「セックス/ジェンダー」の区別は何ら客観的ではないということです。

科学的指標が現実の記述を目的としているのに対して、「セックス/ジェンダー」を区分けする指標は、政治的意図・・・ジェンダー・フリの理念を成立させるための政治・・・に基づいてなされる、現実の意図的な区分です。

  この「セックス/ジェンダー」の区分けを通して、ジェンダー・フリー推進者たちは何をしたいと考えているのか。まずは、その辺りを見ていきましょう。

  ジェンダー・フリーを邦訳すれば「ジェンダーからの解放」ということになるのでしょう。そして、解放の対象はジェンダーに内在するイデオロギーに他なりません。

 一例として「男は仕事に専念し、女は家事に専念する」との命題を考えてみましょう。
この命題に対してジェンダー・フリーはこのような対応を見せます
1)「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異がある(⇒ここで差異が発見される)
2)「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異はセックスに由来していない
3)それらはイデオロギーによって作り上げられた差異である
4)よって、その差異はジェンダーである
5)ゆえに、わたしたちはその差異の規範から解放されねばならない
  これは取りも直さずジェンダー・フリーによる『啓蒙の手引き』に他なりません。

私は今までは「男は仕事に専念し、女は家事に専念する」ということを当たり前のことだと感じていたし、それを当たり前のように他人に強要していた(上記の(1)に対応)。だが、その差異は当たり前のものではなく、イデオロギーに過ぎないことがジェンダー・フリーのおかげでわかった(上記の(2)(3)(4)に対応)・・・
と、各人に「反省」を促す因子となるわけです。
ですが、奇異なことに、この『啓蒙の手引書』を素直に読むならば、この「反省」の落とし所は、「だから、私はこれからは他人にそのような差異を強要するのはやめることにする」となるはずなのです(上記(5)に対応)。あくまでも、個の内部における反省を促すのであれば、個の中心に向かっての訴求力を有するのみです。したがって、この『啓蒙の手引書』から「ジェンダーを探し出して変えよ」という結論 は導き出せないはずなのですが・・・

  どこかに飛躍があるはずです。それはどこなのでしょうか・・・
これを問題[A]としておきましょう。

問題[A]:解放とは個人の解放であって、制度の変革とは何ら関係がないのではないか

  また、問題[A]とは別個に、上記の『啓蒙の手引書』で重大な問題点があることを見逃すわけにはいきません。そもそも、「そのような差異から解放されるということ自体が可能なのか」という問題です。これは、同時に、解放された後には何が待ち構えているのかという問題でもあります。
これを問題[B]としましょう。

問題[B]:そもそも、ジェンダーと称される差異から「解放される」こと自体が可能なのか

 順序どおり問題[A]から考えていきましょう。


=====【意図的な『否定』の用いられ方】====
個の内面において「私はジェンダーを否定する」という『啓蒙の手引書』が如何にして飛躍させられるのか・・・これを考えるためには「意図的な『否定』」について述べなければなりません。

私は(かなり前になりますが)、ジェンダー・フリーの語用には
(1)無意味な『等価式』
(2)意図的な『否定』
があることを述べました。

この意図的な『否定』の使われ方は、「〜でない」という否定語を意図的に場所を変えて文の中に入れ込むことにあります。
 そして、その効用は「個が考えるところの否定されるべきものは、公に見ても否定されるべきものである」との結論を導き出す点にあります。「私が列挙した『ジェンダー』は、何も私だけが悪いと思っているわけではありません。貴方にとっても憎むべきものなのです」との結論を導き出すために用いられるものであり、いわば、ジェンダー・フリーが外向きに発した免罪符(ないしは自己正統化)なのです。

 
無意味な『等価式』と、意図的な『否定』は、形状が似ているので一見するとその違いが判りづらい面があります。「A=B、B=C、ゆえにA=C」という論法を無理やりにこじつけたものが、無意味な『等価式』です。これは価値判断の内面において効力を発揮します。「私の中ではこれらはみんな『悪い』ものだからダメだ」式の発想法がこれに当たります。
 一方で、意図的な『否定』は、「私の価値判断」を「公の価値判断」に昇華させるための手段です。階段の一段目(私の価値判断)と三段目(公の価値判断)の間に二段目(意図的な『否定』)を挟み込むことで、より説得力を持たせようとする意図があります。

無論、この意図的な『否定』の論法においても、例の「無意味な『否定』」を端々で見ることができるでしょう。これらは単独で使用されることは稀のようです。それは取りも直さず、彼等(or彼女等)の思考が如何に、統一性を欠くのかということの現れでもあるのですが。

 
  それでは、意図的な『否定』の用いられ方を見ていきましょう。

もう一度、「男は仕事に専念し、女は家事に専念する」との命題を持ち出すことにします。
1)「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異がある
2)「仕事に専念する」「家事に専念する」という差異はセックスに由来していな い
3)それらはイデオロギーによって作り上げられた差異である
4)よって、その差異はジェンダーである
5)ゆえに、わたしたちはその差異の規範から解放されねばならない
この論法を基礎にして、次の一文が付け足されることになります。
6)ジェンダーから解放されたわたしは、ジェンダーでない制度を選択する
 
この(6)においても、選択するのは「私」です。詰まるところ「私は選択します」という意思表示に他ならないわけで、他人にあれこれ言うべきものではありません。
また、他人にあれこれ言われるべきものでもありません。端的には「それは私の勝手でしょ?」ということなのですから。

ところが、この次に極めて不可解なものが登場します。
7)ジェンダーから解放されたにも関わらず、わたしは、ジェンダーでない制度を選択できない
8)すなわち、私はジェンダーでない制度を選択できる権利を喪失している
9)これは制度が私を不当に抑圧するものである

 
  この不可思議な論法を方向付けているキーワードは(7)の「選択できない」という否定語です。それ以前の(1)〜(6)の中で「〜できる」という語は一度も用いられていません。いきなり、この言葉は、否定の形をとって登場するのです。

  この(1)〜(6)と(7)〜(9)は連結点を持ち、道としては一直線に進んできます。しかし、その道は、明らかに異なるものを連結させてつないだものです。
 ジェンダー・フリーの『啓蒙の手引書』を手に持った者が、山梨県側から富士山を登ってきます。彼(or彼女)は、「私はジェンダーを無意識の内に使っていたのではないか」との疑惑に苛まれながら、「よし!私は、今日からジェンダーでない生活を送る」と決心したときには、富士山の山頂に辿り着いていました。そこで、ふと思うわけです・・・「ジェンダーが中心に置かれている世の中でジェンダーを否定しつづける生活って、結構大変なんだ」と。そこで逡巡している人々の中には、素直に来た道を戻ろうと考える人もいるでしょう。
 そんな人たちの耳元でジェンダー・フリーはささやきます。「君が悪いんじゃない。君を受け入れない社会が悪いんだ」と。
 耳元でささやくのみならず、更には「だから、社会を君に合わせるように変えなければならない」と背中を押します。山頂でぐらついていた人々は押されるままに、静岡県側へ突進する羽目に陥るでしょう。加速度的に様々なものをなぎ倒しながら。

(そういえば、富士山麓でサティアンを営んでいた人々もまた山の向こう側へ突進しました。彼等の狂信性とジェンダー・フリーの狂熱性は等値なのでしょう)

本来的に制度と折り合いをつけるのは「私」です。制度が認めてくれない嗜好等々について、「私が」社会制度と妥協点を見出すのです。ここにおいて主語はあくまでも「私が」であり、「社会が」でないことは十分に留意されるべきです。
その過程の中で、折り合いがつかない嗜好もあるでしょう。反社会的・非社会的であるとして非難される嗜好を指向した者は、かつては、「アウトサイダー」と呼ばれました。彼等は社会に背を向けて自己の嗜好を貫いたわけです。上記の例えを用いれば、それは富士の山頂で強風に晒されながらも踏ん張ることを意味します。
 アウトサイダーでいることはつらいことです。それに耐えられないのであれば、静かに山を下りるしかありません。来た道を戻るのです。

なのに、彼等は山の向こう側へまで行ってしまうのです。

そこまでの力を与える「選択できない」という否定語を一体どのように理解するべきなのでしょうか。

  それについては次稿に譲りたいと思います。



続く



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