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====【前回のまとめ】====
前回の投稿において、
1)本来の女性解放運動は社会へ参加する権利を求める運 動であった
2)戦後の先進国では女性の権利拡張は、ほぼ達成された
3)攻撃の対象を見失ったフェミニズムはその対象を「文 化そのもの」に求めた
4)その「文化」の具体的な内容は「男中心の文化」であ る
5)だが「男中心の文化」に対抗できるモデルを構築する ことはできなかった
6)苦肉の策として、『個』に「男中心の文化」からの離 脱を図るよう命ずることに なる について述べました。

前回の投稿の冒頭で掲げた
問題[A]:解放とは個人の解放であって、制度の変革とは 何ら関係がないのではない か:
問題[B]:そもそも、ジェンダーと称される差異から「解 放される」こと自体が可能 なのか:
この二つの内の問題[B]について、今回は考えていきま す。


===【錯綜するフェミニズム】===
文化を攻撃の対象としたフェミニズムは、錯綜を重ね続け 、現在では「フェミニズ ム」と一括りにできない程までに細分化しました。「リベ ラル・フェミニズム」「ラ ディカル・フェミニズム」「マルキスト・フェミニズム」 「ポストモダン・フェミニ ズム」・・・等々。

 各派が骨肉の争いを繰り広げるまでに細分化されたフェ ミニズムは「フェミニズ ム」の名の下でいったい何を語るのか・・・フェミニズム の究極的な拠り所である 「主体」概念すら脱構築しようとする勢力すらあるという のに(ポストモダン・フェ ミニズム)、笑止千万です。
(もっとも、フェミニスト達はこれはこれで良しとしてい るようですが)

 
  細分化されたとはいえども、フェミニズム内部の諸学派が 男中心文化における「女ら しさ」を解体しようと躍起になっている点では同じです。 逆の視点から申せば、この ことは「女らしさ」という言葉には様々な学派がいじくり まわすことのできるだけの 無尽蔵なポテンシャルが含まれていることを意味します。
 「女らしさ」を解体するということは、取りも直さず、 「女らしさ」が有するポテ ンシャルを徹底的に低く押さえようとする試みに他ならな いのですが・・・その無尽 蔵のポテンシャルを有する価値を解体し、押さえつけた後 に何が待ち受けているの か。これが今回の投稿のテーマです。

   予めお断りしておきますが、今回は、敢えて、フェミニ ズムの言い分を最大公約数 的に解して取り込もうと考えています。
 つまり、フェミニストが主張するように、?,錣譴錣譴?「男中心の社会の中に生き ている」:?△錣譴錣譴了弭佑蝋?の髄まで「男中心の視線 」に漬かりきっており、そ の最たるものは「女らしさ」である:との言い分を認めた 上で、この主張の具現化さ れた社会を想像してみようと考えている次第です。
 
 
  
   ====【剥き出しの差異】====

私が有する「女らしさ」と、私の眼前の話し相手が有する 「女らしさ」には、若干の ずれがあり、かつ、ずれがあることの方が正しいと言えま す。「言葉」はそれが用い られるものである以上は、辞書に掲載されている段階なら いざ知らず、発話において 言葉は話者の特性を付与されるのです。そして、ポテンシ ャルの高い言葉であればあ るほど、様々な特性が付与されることになります。
 ですが、ポテンシャルが高くとも、その「言葉」には一 定の共有意識があります。 だからこそ、われわれはそこを踏み台にして相手に尋ねる ことができるのです。「す みません。あなたの考える『女らしさ』ってどういうこと ?」と。

 「女らしさ」を解体した後において、われわれは自己が 考えるところの「女らし さ」を持ち寄って相手とコミュニケーションを図らねばな りません。確かに、この段 階においても「すみません。あなたの考える『女らしさ』 ってどういうこと?」との 質問は可能でしょうが、同じ形式の質問でありながら、こ れらは全く異なる効果をも たらします。

  ここに理想的なジェンダーからの解放者がいると仮定しま しょう。彼女は「女らし さ」の欺瞞に気付き、深く「女らしさ」について想いを巡 らせ、自己の経験の記憶を 辿りながら反復し、遂に「女らしさ」を構築する原初の「 モノ」に辿り着きます(そ んな「モノ」があればの話しです)。
 彼女のように、個々人が各々の「女らしさ」を構築する のであれば、個々人が持つ 「女らしさ」は千差万別です。つまり各々の「女らしさ」 は極大の差異を見せつける ことになるでしょう。
   
ポテンシャルの高い言葉(=規範)は、使う者によって様 々な差異を生じます。これ は最もポテンシャルの低い言葉(=規範)である数字を考え れば容易に想像がつくこと です。
しかし、差異を生じるポテンシャルの高い言葉(=規範)は 、生じた差異を収斂させる 能力がある点を忘れてはなりません。人々が感じる「女ら しさ」は様々です。「おし とやかな女性」「奔放な女性」「従順な女性」「お茶くみ をする女性」「年寄りの面 倒を見る女性」・・・・これら様々な「女らしさ」は確か に「女らしさ」の一面を突いて いるがゆえに、一括りに「女らしさ」に収束させることも 可能なのです。

 これに対して、「女らしさ」を解体した後で、われわれ が「女らしさ」について 語った場合、個々の考える「女らしさ」の差異は、その差 異を担保するモノの不存在 ゆえに、差異としてそのまま屹立することになります。
  解体し尽くした後に、そこにあるのは剥き出しの差異だけ なのです。

   そのような剥き出しの差異の下で、「女らしさ」について のコミュニケーションとは いかなるものなのか。以下これに関して述べていきましょ う。


====【解体後の世界】====

フェミニズムの言うとおりに「女らしさ」のポテンシャル を極限までに押さえ込んだ 場合、われわれは「女らしさ」を語る上での踏み台をはず されることになります。
 その次元まで辿り着いてしまったとき、われわれは「一 から」女らしさの共有意識 を「作り上げねば」ならなくなるでしょう。
 文字にすると簡単なように見えますが、思いを少しでも 巡らせるならば、これが非 常に困難かつ精神的に閉塞感を伴う作業であろうことがわ かります。

  フェミニスト達は「男の視線」が文化の隅々まで覆ってい ると指摘しました。つまり われわれの骨の髄まで「男の視線」に漬かっているのだと 言うのです。
 ならば「一から」女らしさの共有意識を「作り上げる」 作業は、「どこが『一か ら』なのか」を決める作業・・・つまり、『私』にとって の「女らしさ」が持つ意味の 根元点(還元不可能点)がどこなのかを見極める作業・・ ・を抜きにして語ることがで きません。
骨の髄まで漬かっている人間通しのコミュニケーションは そこからスタートしなけれ ばならないのです。つまり、「女らしさ」という膨大なポ テンシャルを持つ共有意識 を取り払われた場合、われわれのコミュニケーションは果 てしなく先祖帰り(果ては 無意識まで行くのでしょうか?)を強要され、そこから他 者との摺り合わせを図らね ばなりません。
 そのような事をできる「個人」が果たして存在するので しょうか。そして、そのよ うなことまでしてコミュニケーションを図らねばならない のでしょうか・・・・


われわれは「女らしさ」を出発点として人々に規範を求め 、また自己を律します。そ の出発点からの先祖帰りを強要されてしまうならば、われ われは「口をつぐむ」以外 に途はないように思われます。

 
  もっとも、そのような悲惨な状況下でも幾ばくかのコミュ ニケーションは成立しそう です。「わかりあえそうな人々」だけで完結してその中で コミュニケーションを展開 する方法ならば、口をつぐまずとも安心して意思の疎通が できるはずです。「一か ら」作り上げることは無理だけれども、何となくこの人と ならば会話ができそうだか ら会話をしよう、この人とならば共通の話題がありそうだ から会話をしよう・・・私 はこの具体例を容易に想像することができます。
 女性の下着にしか興味を持てない人々の集まり、フィギ ュアに性的興奮を覚える 人々の集団、ロリコンの夕べ・・・・この人々達の有する 「女らしさ」は明らかに社 会通念上のそれと齟齬を生ずるものです。ですが、彼らは 「なぜ幼児に『女らしさ』 を感じるのか」「なぜ下着に興奮するのか」と自己言及で きません。つまり「一か ら」女らしさを組み立てることができないのです。さりと て普通の「女」に欲情する こともできない彼らは、「何となくこの人とならば会話が できそうだ」と女らしさを 語る際の話し相手を選別します。 「女らしさ」のポテンシャルを解体した後に待っている「 女らしさ」についての会話 は、「おたく」の会話です。それがまずいのならば「マニ ア」の会話と読んでもいい ・・・そんな悲惨なコミュニケーションしか許されないと いうのでは明らかに常軌を 逸しているとしか言いようがありません。

「男中心の文化から解放された後には自由な『個』が存在 する」との主張は明らかに 誤りなのです。解放後の世界に待ち受けるものは「窮屈な 自由」か「無秩序な自由」 かの択一です。
 窮屈な自由とは前述のように「おたく」の会話しか存在 しない社会です。これに対 して無秩序な自由とは、何ものにも担保されることのない 自由のことです。「何をし ても何をしなくとも良い」などという生易しい状況ではあ りません。「何をしても良 い。何をしなくとも良い」というテーゼにはきっちりと「 良い」という価値判断が存 在します。「何をしても良い・・・」とのテーゼの裏には きっちりとした価値による 担保がなされているのです。
無秩序な自由が蔓延する社会において、個々の社会構成員 のとりうる行為は極限まで に無限です。何をしようともそれを担保する価値がない故 に人々は己の価値観「の み」に従って行動すればそれで「是とされる」ことになり ます・・・(否、「是とさ れる」ことすら担保されないのかもしれません)・・・・
 そのような社会に住めるほど人は強い存在ではないと私 は確信しています。何もの にも担保されることのない行動を繰り広げることは、通常 の精神状態の持ち主には耐 え難い苦痛でしょう(少なくとも正気の沙汰ではありませ ん)。

  
   ===【問題[B]の解答】===

   ジェンダーからの完全なる解放の後に待つ世界に人は住め ません。そしてその世界に 辿り着くために必ずくぐり抜けねばならない作業・・・骨 の髄まで染みこんだ「男の 視線」を取り払う先祖帰り・・・も、通常の人にはおいそ れとできかねる行為です。

  ならば、ジェンダー・フリーを高らかに掲げて行進してい る人々は、ジェンダーから 解放された人々なのでしょうか?・・・否、思うに彼女た ち(or彼ら)は解放された 「ふり」をしているにすぎません。
私は、それを非難しようとは思いません。なぜなら、ジェ ンダーを完全にぬぐい去る ことが極めて困難(or不可能)であるのならば、人々に 出来ることと言えばぬぐい 去った「ふり」をすることくらいしかないのですから。

  故に問[B]の解答はこうなるでしょう。
問B:そもそも、ジェンダーと称される差異から「解放さ れる」こと自体が可能なの か
⇒《解答》解放された「ふり」ができるだけである。
 

  
   ====【セクト化する社会】====

  「女らしさ」のポテンシャルを極限まで低く押さえた後の コミュニケーションについ て語りましたが、この話題を解体後の社会に拡大して話し を続けましょう。

主婦A:「おたくのお子さんは今日から小学生でしょ?」
主婦B:「そうなの。あの子ったら喜んでランドセルしょ って出ていったわ」
主婦A:「ちなみにランドセルの色は何色?」
主婦B:「赤色」
主婦A:「なぜ赤色なの?」
主婦A:「だって女の子だもの」
主婦B:「ふうん・・・・・」
 この主婦Bの「ふうん・・・」の後に来る行動を考える と興味深いものがありま す。おそらく「女らしさ」のポテンシャルが解体された後 に来るのは「女らしさ」の セクト化です。「女らしさ」をどの程度選択するのかによ り、人々はセクトを組みそ の内部のみでコミュニケーションを図るようになるでしょ う(オタクの会話)。

  この場合、「セクト」と称するのが最も妥当でしょう。「 サークル」、「集団」・・・
そんな単語よりも「セクト」が持つ攻撃的イメージが最も これらの集団には相応しい ように思われます。
 なぜなら、これらの集団は他集団とのコミュニケーショ を図ることができないゆえ に攻撃的・防御的にならざるを得ないのですから。
 
われわれはコミュニケーションが出来ない相手に対して、 本能的な脅威を感じます。 暴力団が恐ろしいのは、彼らにはわれわれの常識が通じな い(と見せかける)点にあ ります。古よりそのような人々は「慮外の民」と呼ばれま した。何をするかわからな い者とは、詰まるところ何を考えているのかわからない者 を指します。

 フェミニストは、「男の視線」は社会の隅々までを覆っ ており、個人の発想におい ても骨の髄までそれは染みこんでいるのだと主張しました 。つまり「男の視線」はわ れわれの思考の中心原理であると言ったわけです。  私はこれ自体は否定しません。確かにそういう面もある だろうと納得するのですが ・・・骨の髄まで染みこんだものを抜き取った後に、何を 注入するのかがさっぱりわか らないのです。
 何を注入するのかは本人が決めろ!という無謀さは次の ような比喩で例えられま す。

《比喩》ある国ではごく普通に単一言語が母国語として用 いられてきた。
ところがある時、その国でひとつの法案が可決された。 その法案はたった一条しか書かれていない。
第一条:『国民は自らが喋る言語を決めねばならない』
  この言語選択法によりすべての国民は自らが喋る言語を自 らの手で 決定しなければならない羽目に陥った。

骨の髄まで染みこんだものを「制度」により解体すること は斯くのごとく危険な行為 です。その後に待ち受けるものは、英語を用いる集団、仏 語を使用する集団、相変わ らず日本語を使用し続けた集団・・・という集団の集合体 ができ、その各集団の間で まともなコミュニケーションは成立し得ない状況が勃発し ます。英語を用いる集団に とって仏語を使用する集団は「慮外の民」となり、日本語 を用い続けた者たちにすれ ば英語を使う者は「慮外の民」です。
 そこにおいては、人々の間に「信用」「信頼」といった 美徳は失われます。
====【山のあなたの空遠くに幸いが住むためには】= ===
 「私はフェミニストの行動に対して多大な違和感と嫌悪 感を持っている」ことは、 「私」にとっては明白な事実です。フェミニスト達、ジェ ンダー・フリー信奉者達の 繰り広げる蛮行は私にとって耐え難い程の社会的「雑音」 です。
 ですが、もしも件のフェミニストが私のごく親しい間柄 の人物であるならば・・・恐 らく「私」は「困ったもんだ」と苦笑しつつ知人の蛮行に 目を瞑ることでしょう。彼 は私の知人・友人として長い年月を共にしてきた者であり 、彼の人となりは十分に信 がおけるからです。

   ならば、「私」は「山の向こう側」に住んでいる見ず知 らずの人を信用することが できるのでしょうか。
 合ったこともなく、見たこともない人々、今初めて出会 い、そして今後二度と会う こともないであろう人々を・・・
 
日常生活において、われわれは「山の向こう側」に住んで いる人々を信用していま す。「あの人たちも私と同じ『人』なんだからそんなに非 道いことはすまい」との想 いを共有しつつわれわれは生活を営むのです。
 この場合の『人』を『人間』と換言しても構いませんが 、この『人間』は決して種 としての人間などという気味の悪いものではありません。 同じ文化を共有する者とし ての『人間』・・・同じ規範を有する者通しとしての共有 認識なのです。   この共有認識を持ち得ない社会は、分裂せざるを得ません 。「私」にとって安心して 住むことの出来る集団とは「私」の目の届く範囲内に散在 する人々のみを指すのです から。
 
  こうして考えてみれば、見ず知らずの人々に信を置くこと の出来る社会とは、実に恵 まれた存在なのです。 だからこそ・・・・

  
  
       《付言》
日常生活を覆う常識・倫理・道徳・法・・・・こういった ものは極めて強力な力を有 するように見えます。また、強力な力を有し得るように見 えないことには社会の安定 は保たれません。
 ですが、これが覆されるときは「あっけなく」見えるほ ど単純に覆るものです。社 会の外部からやって来て、われわれの安定した社会を「あ っけなく」覆そうとする者 を人々は「テロ」と呼びます。ならばフェミニストはテロ リストなのでしょうか。
 私はそうは考えません。彼らは、われわれと同じ社会に 生活しながら、われわれと 同様に、日常生活を覆う常識・倫理・道徳・法・・・・こ ういったものの有する強力 な力を信じています。信じているからこそ「この程度のこ とでは大したこともないで しょう」と高を括って「改革ごっこ」に精を出すのです。  ですが、彼らのしている「ごっこ」の最終的な結末は信 じがたい悲劇をもたらすで しょう。言わば、彼らはガソリンの側で火遊びをしている 子どもなのです。爆発した 後には自分の家が跡形もなく燃え尽きて「今晩住むところ もない」となりかねないで あろうことに想いが至らない子どもです。

 
子どもは様々な「ごっこ」をします。「お人形さんごっこ 」「仮面ライダーごっこ」 等々。これらの「○○ごっこ」に共通するのは「夢想」で す。ならば、「改革ごっ こ」に精を出すフェミニスト(ここに至ってはジェンダー ・フリーも含めて)達が思 い描く「子どもの夢」とは何でしょうか?・・・・


その「子どもの夢」こそが、前回の投稿(第6回)の冒頭 に掲げた問題[A]の解答 になります。
⇒問題[A]:解放とは個人の解放であって、制度の変革と は何ら関係がないのではな いか

  これに関しては次回の投稿へ譲るとしましょう。

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