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夫婦別姓論の構造と射程(?供法Ω緘症?br>


目次
赤本:夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>
青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>
白本:夫婦別姓論の構造 <夫婦別姓論は自明の帰結か>
黒本:夫婦別姓論の前景 <制度は世界観の表現である>


青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>・後半部
★青い文字の部分は補足説明ですから、最初は飛ばして読んでいただいて結構です。

■フェミニズムの思想基盤に走る断層 <承前>
●フェミニズムの思想基盤相互の間に走る断層
フェミニズムの基盤には断層が走っている。私はそう考えている。フェミニズムの土台をなす個々の思想とフェミニズムとの間の関係を一瞥した今、フェミニズムの思想基盤相互の間に走る断層の検討に移ろう。即ち、相互に異質な思想体系を基盤としていることに起因するフェミニズムの破綻の可能性を考察するのである。もって、フェミニズムが主張する男女の性差(gender)についてのものの見方がそれほど自明なものでも自然なものでもないことを明らかにするつもりである。

フェミニズムを支える個々の思想を私は二つの観点から分類する。第1の観点は、それらの社会思想が「個人の幸福を増大することで社会全体の改革を目指す」ものか、逆に、「社会全体の改革を押し進めることによって個人の幸福の増大を目指す」ものかという言わば「個人志向型 Vs 社会志向型」のチェックである。第2の観点は、フェミニズムを支える個々の思想が社会に内在する問題を認識しその解決のための施策を抽出するために、ある理念なりある普遍的に妥当するような概念を中心に体系化されるタイプのものか、数学における公理主義的な構造を使って考察を展開するタイプのものかである。それは、言わば「イデア論型 Vs 非イデア論型」の判定である。蓋し、「個人志向型 Vs 社会志向型」および「イデア論型 Vs 非イデア論型」の二つのチェックポイントの軸がつくるマトリクスの中にフェミニズムを支える個々の思想を位置づける。而して、私の認識はこうである。
近代立憲主義的な人間観と世界観は、個人志向型&イデア論型
マルクス主義的な人間観と世界観は、社会志向型&非イデア論型
ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観は、個人志向型&非イデア論型

(甲) 近代立憲主義的な人間観と世界観
近代立憲主義は個人を社会的な価値の唯一の源泉と考え、個人をして国家に論理的に先立ち国家権力に統治の根拠を与えるものと考える。また、近代立憲主義は、「人権」や「国民主権」ならびに「自由」や「平等」や「平和」等々の理念を国家権力がその実現をめざすべき内容であり、それらは国家の恣意的な権力行使から優先的に護られるべき社会的価値であると主張する。私が近代立憲主義的な人間観と世界観をしてイデア論型と解する所以である。

尚、近代立憲主義的な人間観と世界観は、社会から個人以外の総ての実体をいったん抹消しさった後に、個人の尊厳を確保するために国家権力の根拠を再構築する営為でもあった。その点で近代立憲主義は社会志向型と見られる余地もある。しかし、このような意味でならばほとんどの「社会思想」は社会志向型になるわけであり、とりわけ修正資本主義下(行政権の肥大化と選挙権の拡大を特徴とする。)の大衆社会を考察の主な対象とする現代のあらゆる社会思想は社会志向型であると言えよう。ここでの分類の観点が「個人の幸福」と「社会全体の改革」のいずれに思考の優先権を与えるかという文字通り社会認識のプライオリティーに着眼するものである以上、近代立憲主義の人間観と世界観を個人志向型と判定しても間違いではないと思う。

(乙) マルクス主義的な人間観と世界観
社会主義とは、本来、世に生起する問題を「個人」と「国家権力」の両極から捉えることには限界があることを主張する立場であった。失業や諸物価高騰、富の偏在や道徳の紊乱を解決するには個人と国家との間に横たわる「社会」をこそ考究しなければならない、と。これが社会主義の基本的なモティーフであった。ゆえに、社会主義をその思想体系の源泉の一つとするマルクス主義が社会志向型であることは自明であろう。また、フーリエやサン=シモンに代表される所謂空想的社会主義者は近代立憲主義と同じ「自由」や「平等」や「豊かさ」を理念として社会改革を目指すものであった点でイデア論型である。しかし、マルクス自身は所謂実体概念の呪縛から離脱し、所謂関係概念を使用して社会の認識と社会問題の解決の方策に向かったとの廣松渉先生の見解を私は妥当と考える。私がマルクス主義をして非イデア論型と解する所以である(★註)。

★註)マルクスは実体概念の呪縛から逃れることができたか?
廣松渉『もの・こと・ことば』(勁草書房・1979年)、『マルクス主義の地平』(勁草書房・1969年)、『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房・1972年)、『事的世界観への前哨』(勁草書房・1975年)、『存在と意味』(岩波書店・1982年/1993年。特に第2巻第2篇)をご参照いただきたい。尚、実体概念と関係概念(関数概念)に関してはカッシ−ラー『実体概念と関数概念』(みすず書房・1979年)を是非参照いただければと思う。


(丙) ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観
ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想が非イデア論型であることには争いはないと思う。そもそも、ヨーロッパ中心主義を批判する主張の発端は普遍的な実体や実在と考えられている事象が擬制やフィクションにすぎないことを告発することにあったのだから。問題は、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観や世界観が個人志向型か社会志向型かである。要は、ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想には個人志向型と社会志向型の両方が存在しうる。蓋し、前者が「家族」「国家」「夫婦」「民族」等々のあらゆる共同体の幻想性を解体に留まるのに対して、後者はあらゆる共同体の幻想性を解体した後に新しい社会の再構築に向かう、例えば、フェミニズムに関心を持つマルクス主義等の社会思想である。しかし、私の理解では「新しい社会の再構築」の動機と戦略戦術案はヨーロッパ中心主義を批判する社会思想自体から論理的に演繹されるわけではない。ゆえに、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観や世界観自体は(その地点に留まる限りは、)個人志向型と分類さられるしかない、と私は考えている。現在のフェミニズムが、社会に根ざした伝統や権威を壊すばかりで、再構築されるべき新しい社会の具体的なイメージを必ずしも提供できていないように思われるのも、フェミニズムが個人志向型に留まるヨーロッパ中心主義批判の哲学を土台としている限りなんら不思議ではない。上記の考察を図表にまとめてみる(下図参照)。

個人志向型社会志向型
イデア論型近代立憲主義(空想的社会主義)
非イデア論型ヨーロッパ中心主義
批判の社会思想
マルクス主義

●フェミニズムの思想基盤相互の間に走る断層とその様相
フェミニズムはその基盤に極めて調整が困難な断層を抱える所の思想的の混合物である。
近代立憲主義とマルクス主義の相克は明瞭である。前者は個人の尊厳や基本的人権、即ち、「自由」や「平等」を国家権力が実現せざるあたわざる目標と考えるのに対して、後者は「自由」や「平等」という概念自体にアプリオリな価値を認めない。尚、歴史的にマルクス主義が人権、就中、平等の具現を強く主張したという事実は問題にならない。ここではその社会思想の基盤に横たわる社会認識の傾向性とその傾向性の根拠を検討しているからである。要は、マルクス主義が「平等」を追求することを止めたとしてもそれはマルクス主義的であることに変わりはないが、社会全体の改革を押し進めることによって個人の幸福の増大を目指すことを止めたとするならば、最早、その思想営為はマルクス主義的ではないと私は主張しているのである。

近代立憲主義に基盤を置くフェミニズムは(フェミニズムのある主張が近代立憲主義から基礎づけられるときは、)基本的人権と個人の尊厳から演繹される「女性の権利」を国家権力の権威と威力を通して実現しようとするのに対して、マルクス主義的なフェミニズムは近代国家とそれを支える市民社会自体の改革をさえ主張する。近代立憲主義は伝統の中でその内容の具体性を獲得してきた人権に軸足を置く点である意味保守的である。つまり、女性が専業主婦としての自己実現に喜びを感じ、男女のカップルが夫婦として運命を共有することに人生の醍醐味を感じるのならば、この性的分業制度は法的保護の対象たりうる。しかし、マルクス主義からはそのような喜びや醍醐味は思想の本質とは無関係な気分や感情にすぎないと捉えることになろう。

近代立憲主義とヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観の齟齬は近代立憲主義とマルクス主義の相克とパラレルである。ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想は人権の普遍的な価値を認めないからである。つまり、マルクス主義とヨーロッパ中心主義批判の相克は、前者が将来斯くあるべきという社会のイメージとそれに至る明確な経路の案を保有する世界観提示型の社会思想であるのに対して、後者、ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観が単なる幻想や擬制の解体屋のそれであることに収束する。もちろん、マルクス主義が提出する経路案を正しいとか、現実的であるとか考える人は今日極めて限られるだろうけれども。ここで再度記しておきたい。ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観からはフェミニズムはフェミニズムが再構築する新しい社会の具体的なイメージも経路も演繹することはできない。要するに、ヨーロッパ中心主義批判の哲学に基盤を置くあるフェミニストの政治的や法律的な主張は当該のフェミニストが別途他所で調達した価値観や政治哲学からなされていることになる。

フェミニズムの主張に傾聴すべきことは少なくない。それは、あらゆる社会的な共同体が幻想にすぎないことを踏まえ、現代日本においっても女性は資本主義的と家父長制的の抑圧に晒されていることを告発する。そして、国家権力の唯一の源泉が均質なる個人であるとの近代立憲主義の主張を流用することで、日本社会を再構築する論理的と思想的な根拠をフェミニズムに与える。ここまでは真っ当な主張ではないかと思う。けれどもフェミニズムの主張には限界がある。つまり、フェミニズムの主張のある部分はフェミニズム的な世界観に賛同する者だけにしか説得力を持ちえない内容なのである。以下、その経緯を確認しておきたい。即ち、

・ 日本社会再構築に関して近代立憲主義が与える根拠はフェミニズムだけに与えられたものではない。要は、フェミニズムがイメージする将来において改革された日本社会とは別の日本社会のイメージが幾らでもフェミニズムと同程度の根拠を保有しつつ存在しうること
・ マルクス主義からの現状認識はマルクス主義的な社会改革とセットになって初めてその論理の首尾一貫性が保てる性格のものである。ゆえに、マルクス主義的な社会改革の経路認識から切り離された所のフェミニズムの社会認識(2重に抑圧された女性観等、)は単なる社会認識の仮説の一つにすぎないこと
・ ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想と哲学は社会的な共同体と自己と家族と夫婦の幻想性を解体する点までは正しい。しかし、この認識から一歩先に進んで、どのような生き方やどのような社会のあり方をフェミニズムが提案するかに関してはヨーロッパ中心主義の社会思想は何らの援助もフェミニズムに与えることはできないこと
・ フェミニズムを「男女同権」を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を同じものとして取り扱おうという思想と定義する場合。その具体的な主張、例えば、夫婦別姓法制化の推進や「男子らしく」とか「女子らしく」という伝統的な言葉使いの廃止は、それを主張する当該のフェミニスト個人の私的なイデオロギーや価値観から導出されるのであってフェミニズムの社会思想的な基盤とはなんらの論理的かつ思想的な関係もないこと


■フェミニズムは玉葱の皮である
フェミニズムは思想の混合物である。現在の先鋭化した日本のフェミニズムにとってそのどの思想基盤からも、天皇制や日本型の儒教的家族道徳が男性優位かつ女性蔑視の考えとして批判されることには変わりない。しかし、フェミニズムに日々突きつけられている諸々の現代的や国際的な思想課題に対しては、フェミニズムはその課題や問題の性質に応じて自己の政治的な主張を押し通すのに最適な思想のアイテムを適宜使い分けているのではないか。私にはそう思われるのである。

フェミニズムは玉葱の皮である。考えれば考えるほどフェミニズムとは玉葱の皮であると私は思う。その心は。フェミニズムの思想的なアイテムを一枚一枚剥いていくと何も残らない。フェミニズムを形成するアイテム間の関連は希薄であり、フェミニズムの政治的な主張や法律的な解釈はフェミニズムの思想基盤とは論理的には無関係なフェミニスト自身の願望や勝手な思い込みからなされたものにすぎない。而して、その法制度論的な主張は涙なしには語れないほど醜悪なものである、と。要は、フェミニズムは自己の主張を貫くために、つまり、男女同権を越えて実現可能な総ての社会領域と場面で男女の取り扱いを同じにするために使えるものなら何でも使うというタイプの社会思想、否、社会思想の姿をした政治イデオロギーなのかもしれない。

フェミニズムは政治イデオロギーでありその主張の核心はフェミニズム思想の基盤から必ずしも演繹されるものではない。この認識からはフェミニズムの中での路線闘争は、正に、古の講座派と労農派の論争とパラレルである。蓋し、フェミニズムが実現しようとする将来の日本社会の姿は、実は、フェミニスト各自がフェミニズムとは別途調達したイデオロギーに規定され、かつ、路線闘争の分枝は各論者が日本社会における反フェミニズム勢力の強固さと日本社会に組込まれた勢力基盤個々の構造をどう評価するのかに左右されているのだが、男女同権を越えて実現可能な総ての社会領域と場面で男女の取り扱いを同じにするという彼等の目標自体には差はない。即ち、フェミニスト達は同床異夢の関係にあるが、彼等が現在の日本社会を成り立たせている日本の文化や伝統を破壊する壊し屋である点ではフェミニスト間に差はないのである。ここで、赤本以来検討してきたフェミニズムに内在する問題点を整理敷衍しておく。
   
●フェミニズムは「家族」や「夫婦」を共同の幻想にすぎないと考える
△「家族」や「夫婦」が幻想であることは正しいだろう。しかし、その点では「国家」や「国際関係」も幻想にすぎない。問題は、ある事柄の幻想性ではなくその幻想性の効能ではないだろうか。要は、役に立つ幻想は良い幻想であり役に立たない幻想は悪い幻想である。

●フェミニズムは「家族」や「夫婦」の幻想性が資本主義的な疎外構造と搾取構造を下支えすると考え、その幻想性は男女の性差に基づく(genderを理由とした、)分業を女性に(否、女性にも男性にも、)強いる人間性に対する桎梏と考える
△資本主義的な生産関係のあり方を男女の性差(gender)が下支えしていること(性差に基づく分業が資本主義的な社会関係に組込まれていること)は事実であろう。しかし、それが<悪>であり<邪>なこととして否定されるべきかどうかは自明ではない。厳しく言えば、資本主義が嫌なら資本主義的でない社会を形成するか非資本主義的な社会に逃げるかない。そして、そのような意見が明らかに少数である日本社会に生きているのならば、資本主義的な生産関係や分配構造を自明の悪という前提で論を組み立てたとしてもフェミニストと同じ宗派に属する者以外にはなんらの説得力もないに違いない。

●フェミニズムは「家族」や「夫婦」の幻想性は、家父長制、即ち、儒教的な封建的意識の残滓であり、それらは資本主義的な疎外構造を下支えしていると考える
     △近代日本社会では家父長制の抑圧と資本主義的な抑圧による二重の支配に女性が晒されていると理解することはある意味で正しいだろう。しかし、儒教や封建的な意識構造が<悪>であり<邪>なこととして否定されるべきかどうかは自明ではない。他方、近代立憲主義が抽出する均質でアトム的な個人を社会における唯一の価値の主体とするアイデアは社会思想の歴史とメニューの中では、寧ろ、特殊なものである。個人の尊厳や基本的人権の尊重は歴史的にはとても「人類普遍の原理」などと呼ばれ得る代物ではない。

●フェミニズムは男女の生物学的な差異(sex)を認めるもののその性差(sex)が社会関係に組込まれることを激しく忌避する。生物学的な差異、それに基づく性行為や性欲の存在は認めるものの生物学的や社会学的な理解を超えてその結果(快楽や妊娠、夫婦の一体感と家族の連帯感の涵養等々、)が人生において意味や価値のあることと捉える見解をフェミニズムは痛烈に批判する(1970年代後半までは、京都大学あたりのフェミニストグループではスカートを穿いているだけで批判されたらしい。「あんた、<女>みたいなカッコーしてんやん!」、と。)
△フェミニズムには自己の性的なアイデンティティーの確立に葛藤する思春期特有の悩みを回避する心性があるのではないか。それは葛藤を回避し結果を先送りする思想ではないか。フェミニズムは性欲も対幻想も生物学的と社会学的な範疇で処理する。男女はそれ以外の領域では均質な同じ人間とフェミニズムは考える。要約しよう。フェミニズムは、男と女の性差を生物学的な範疇に還元することで、♂と♀という性差(sex)以外の社会的な差異(gender)を逆に幻想として解体できると考える。私にはこのフェミニズムの立場は「目をつむれば世界はなくなる」と語る議論と異ならないと思える。フェミニズムはこのような観念的な言辞を多用し、自己の性という実存的な事柄から目をソラシ、而して、性差(gender)に起因する運命から自分が自由な存在であるかの如く考える所の思春期のお嬢様/お子様の議論にすぎないのではないだろうか。
    
    
私にはフェミニズムは玉葱であると思われる。その思想の基盤は近代立憲主義であり、マルクス主義であり、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想である。しかし、フェミニズムの政治的な主張はこれらの思想基盤を適宜援用しつつ斯く展開されているのではないか。即ち、
イ) 重層的な抑圧から人間(♀&♂)を解放すべく
ロ) 均質なアトム化した個人を想定し
ハ) そのような個の想定に際して零れ落ちる<女性性>なり<男性性>を人間本性にとっての過剰として捨象する。而して、 ニ) フェミニズムはそれらの過剰を行政と司法の力で社会的にも切り捨てることを画策する。「男女差別があるのは社会が悪いんやんか、そやからな、その悪弊はな法律と行政の責任においてな改善されなあかんねん」、というのがフェミニズムの常套句なのも頷ける

要は、イ)の主張のためにはマルクス主義を、ロ)の主張のためには近代立憲主義とヨーロッパ中心主義批判の社会思想を援用する。また、ハ)を述べるためにはヨーロッパ中心主義批判の社会思想のアイデアを準用し、ニ)の正当化のためには三つの思想基盤総てを借り出すという具合である。ウーマンリブのフリーセックス運動は「誰とも気が合えばニャンニャンするのが自然で当然」との主張ではなく「性に纏ろいつく因習や固定的なイメージや考え方から自己を解放しよう」ということだった。このことからも想像できるように、1970年代後半までのフェミニズムは、社会を変えるために個を変革する運動であったのに対して現在のフェミニズムは個を変えるために社会を変革しようという極めて操作主義的な倣岸不遜な思想である。識者が現在の先鋭化したフェミニズムを指して「文化大革命」を画策する不逞の輩と喝破される、蓋し、所以であろう。

私はこれらの雑多な思想基盤と個々のフェミニストの政治的イデオロギーを「玉葱」として統合しているものをフェミニズムに内在する所の、ある特殊な人間観とユートピア的な社会観ではないかと考えている。ある特殊な人間観とは、自己の性的なアイデンティティーを認めたくないという思春期で立ち止まっている者に特徴的な人間観であり、ユートピア的な社会観とは、生物学的な差異(sex)を捨象した均質な人間が男女同権の主張の範囲を遥かに越えて社会生活を営みうると考える社会観である。 
 
国際的な競争がまさにヒートアップしている21世紀のこのメガコンペティションの時代に、他方、目も眩まんばかりの多様な民族の文化や民族の一体感が世界の諸国民の中に現存している国際社会の現状を前提にして、現在の生産力や国際競争力を損なうことなく男女同権を越えて均質な男女が共生できる社会を夢想するものをユートピア思想と言わずして何と言おうか。また、 思春期的の言辞は思春期にある若者が自己の実存的課題に悩みその課題への真摯な回答を素直に語る時にのみ思春期特有の清々しさを他者に感じさせるだろう。これに対してフェミニズムの言辞や論理(もしフェミニズムに論理なるものがあるとするならばだが、)は剥いたばかりの玉葱の  皮がそうであるようにそれを読むものを戦慄させ涙を流させずにはおかない。その思想基盤に走る断層の深さと、フェミニストがフェミニズムの思想基盤とは別所から調達してくる政治的なイデオロギーの陳腐さと醜悪さゆえにである。
  

■フェミニズムの躓きの石としての性差と性欲
フェミニズムは性差(gender)と性欲を人間にとっての<過剰>と考える。性差と性欲は人間が社会生活を営む上での余分なもの、そうフェミニズムは捉えている。性差(gender)は均質なアトム的な人間(♀&♂)にとっては確かに過剰な属性であろう。しかし、人間(♂&♀)は一人では生きていけない。而して、実際には性差(gender)は人間(♀&♂)の<不足>を埋めるものである。そして、この<不足>を埋めるための人類の経験と智恵が婚姻と家族の制度に他ならないのである。蓋し、性差(gender)を<過剰>と捉えるフェミニズムが婚姻や家族に対して露骨な敵愾心を隠さないのも当然であろう。

性欲をフェミニズムは単なる生理現象と理解する。正に、「事務処理」である。性欲が湧きあがればそれを解消するだけである。それは、髪が伸びれば散髪に行き、空腹を覚えれば食事をすることと何ら本質的な差異はない。しかし、性欲も人間存在(♂&♀)に<不足>なものを補う営為ではないだろうか。要は、反フェミニズムの立場からは、人間(♀&♂)は性差(gender)を越えて、否、異なるがゆえに互いの<不足>を補いあうという意味で対等なのである。それは非対称的であるが(あるがゆえに)対等なのである。他方、フェミニズムは人間(♂&♀)は均質であるがゆえにこそ対等と考える。人間は「男」であるか「女」であるかのいずれかである。その規定性を捨象するためにフェミニズムは性差(gender)と性欲を<過剰>として切り捨てる。蓋し、観念的な考えを好む人にとっては観念的な認識の対象世界こそがリアルな世界である。恐らく、フェミニズムにとっては性差(gender)が捨象された世界(それは反フェミニズムから見れば人間存在から性差(gender)が剥ぎ取られた空虚な世界である。)こそが現実的なのであろう。もちろん、フェミニストがどんな世界にリアリティーを感じようともそれは論者の自由である。しかし、その世界認知はフェミニスト以外の者にはなんの説得力も持たないことは言うまでもない(★註1)。

家族も夫婦も擬制であり想像の共同体にすぎない。しかし、それらは想像上のものであり、幻想にすぎないとしても<共同体>ではある。「人は女に産まれるのではない。女になるのだ」というボボワール『第二の性』の主張は正しい。女は社会において作られるのだろうしその経緯は男も同じであろう。「人間」という普通名詞は辞書か六法全書の中にのみ存在する。何が言いたいのか。それはこうである。女も男も社会的にその属性を与えられる社会的存在(a gender)にすぎないけれども、人間(♀&♂)は<男>か<女>というユニフォームを着ることなしには社会の営みに十全には参加できない。加えてこの不条理と不正義に満ちた人生の七難八苦を乗り越え人生において自己の個性を華開かせ感動的な人生を具現することはこのユニフォームを着ることなしには難しい、と(★註2)。

人は一人では生きられない。それは、生活資料(衣食住等々の物質的資材、)を生産獲得するための社会的分業が人間の社会生活に不可欠であるという意味でもあるが、同時に、生命の再生産のための性的分業の不可避性をも意味している。夫婦と家族の制度が形成する男女の社会的な性差に基づく分業こそこれらの社会的分業と性的分業が見事にブレンドされた人類の叡智ではないだろうか。フェミニズムの思想はこれらの分業の必要性を等閑視している。フェミニズムは対自然関係においても対社会関係においても目に見える形での分業の必要を考えないでよいようなある意味恵まれた立場(ある意味不幸な立場、)からの社会認識ではないか。即ち、私は現在の先鋭化したフェミニズムを、その主張のラディカルさや言辞の激しさ、論理の傲慢さとは裏腹に、「先進国の都市生活をするホワイトカラー」のひ弱な世界認識にすぎないと考えている。フェミニズムとは言わば都会のワンルームマンションからの人間観であり社会観にすぎない(★註3)。

★註1)フェミニズムによる性欲の矮小化と抽象的人間像の肥大化
例えば、関西で活躍されている深江誠子さんは、娘の深江たみさんと一緒にフェミニズムの普及活動をされておられる。誠子さんはたみさんが小さい頃からコンドームを渡していたそうである。正に、生理現象としての性欲を処理する性的な事務処理において自分を傷つけることのないようにとの(妊娠や性病を考慮しての、)フェミニズム的には周到かつも暖かい親の配慮なのだろう。しかし、前にも書いたように、ウーマンリブ運動が提唱した「性からの解放」とは性にマツワリツク社会的な感情と意識の体系から自己を解放しようというスローガンであり、特定の異性と特定の感情を持続することを相対化することは(まあ、要するに、気が合えば誰ともニャンニャンすることは、)その性からの解放のための手段の一つでしかなかった。それは、それでいいのだが、性からの解放は多分、人生や社会の最大の問題ではない。親の介護はどないすんねんや。やりがいのある仕事(もちろん専業主婦業はその最たるものである。)を通して社会に貢献することは重要やないとでも言うんかいな。もし、人生の課題が性からの解放以外に目白押しだとするならば、人生の諸々の課題をバランス良く解決しながら自分の一生を歩ききるためのやり方として婚姻や家族の制度は結構うまく出来た制度だと私は考える。ならば、深江さん、男女(♂&♀)の等質性を主張するのために性欲や性差(sex)が邪魔だからといって性欲や性差(sex)を矮小化すべく、性を振り回して周辺の皆さんにあんまり迷惑かけなさんな。子供にコンドームを持たせるのは勝手だけど、そんなん世間に言いふらすことじゃないでしょう。と、私は考える。

★註2)ゲイ・レズビアン・ホモセクシュアル
同性愛者(性的自己同一性の先天的不適合者も所謂文化的不適合者もここでは区別しないでおく。)は、自己に与えられた生物学的な性差(sex)を拒否するが、文化的な擬制としての性差(gender)を熱烈に歓迎する。ただ、その性的役回り(the gender)が社会から与えられるものと同性愛者が希求するものとが異なっているだけである。そう、世間では青のユニフォームを着るように促されているのに、自分は赤のユニフォームが着たいというようなそれだけの違いである。これに対して、現在の先鋭化したフェミニズムはユニフォームを着ること自体を拒否する。

★註3)人類の財産としての性差
平成14年『正論』8月号は「フェミニズム批判大特集」を組んだ。その中に大変共感できるコメントがあった。東京女子大学の林道義先生の寄稿記事である。以下引用する。
「フェミニストはジェンダー(文化的性差)を頭から「悪いものと」決め付けている。しかし文化的に培われてきた性差は、人類の大切な文化的財産であり、人間にとって必要な智恵の結晶である」(林道義「「男女平等」に隠された革命戦略 家族・道徳解体思想の背後に蠢くもの」241頁)。「子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になるのである」(242頁)。「ジェンダーからフリーになろうとするのは大きな間違いであり、ジェンダーは人間にとって必要な文化なのである。身体的本能的な区別をもとに文化的な具体化と洗練化の結果できあがったものであり、生得的な部分と後天的な発達とが結合したものである」(242頁)。「整理すれば、ジェンダーフリーは二つの根本的な間違いを犯している。「性差は文化によってのみ出来上がる」と考えている点と、「文化的性差はなくすべきだ」と考えている点である」(243頁)。
 

■幸福の青い鳥は<家族物語>の中にいた
アリストテーレスが語るように「人間は社会的な(ポリス的な)動物」である。人間は一人では生きられず、社会(ポリス)における生活を運命づけられている。ならば、他者から与えられる規定性(即ち、「他人が君を見る見方」や「社会が私の性質として理解する事柄」等々、)は社会的な存在としての人間にとって寧ろ本質なのではないだろうか。ならば、家族や夫婦が幻想であり擬制であることはそれらの社会的意義や有用性を否定する根拠には必ずしもならないだけでなく、それらの制度が与える<幻想の共同性>は社会的存在としての人間の本質でさえある。人間はその人類史の経験の中で、夫婦や家族という<物語>を生きる生き方を編み出した。この<家族物語>は幻想にすぎないとしてもそれは人類史の中で推敲を重ねられた文化の結晶である。

ポスト=構造主義が教えるように、多様な自分と多様な人生をスキゾ的(精神分裂病的)に軽やかに生きる生き方も、あるいは先進国の都会のワンルームマンションで暮らすホワイトカラーには魅力的でリアルな提案に聞こえるかもしれない。しかし、断片的な人生をモンタージュ(montage:断片的な場面をつなぎ合わせて新しい一つの画面を組み立てること。)のように継ぎはぎするような生き方がはたして人間性の本性に適ったものなのだろうか。蓋し、フェミニズムの提案する生き方が世界観の一つにすぎず、フェミニズム的な世界観とは別の選択肢を我々が持っていることだけは確かである。

再度記す。家族や夫婦は幻想にすぎぬ。これは正しい。しかし、本当の自分を発見しようとしてそれらの擬制が与える社会的な規定性を一枚一枚剥ぎとた結果何が残るというのだろう。私は人間(♀&♂)の本性を社会的な規定性自体の中に見る。即ち、社会的や文化的な規定性が編上げられたものが<自分>に他ならず、本当の自分とはそのような社会的規定性以外には存在しないと考えている。畢竟、ここにもう一つの玉葱の皮剥きをする愚がある。蓋し、ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想が教えるように、パラノイア的(偏執症的)な自己幻想には何の普遍性もない。けれども、パラノイア的幻想に普遍性や必然性がないこととパラノイア的な自己幻想や対幻想や共同幻想が無意味であることとは同じではない。ポスト=構造主義も、否、ポスト=構造主義こそが<自分>とは文化的な規定性の体系に他ならないことを喝破したのであり、だからこそ多様な社会的な規定性を適宜使い分ける生き方をポスト=構造主義は提案したのではなかったか。曰く、「適宜、生活の場面場面で人生の段階段階で多様なユニフォームを使い分けたらどうだろう。そうすることで今までより感動的で快適な人生を送れるようになるかもしれないよ」、と。ならば、現在の日本に蔓延する先鋭的なフェミニズムはこの点ではポスト=構造主義とは無縁である。何故ならば、それは裸で街を歩くことを提案しているに等しい主張なのだから。

フェミニズムはユニフォームを脱ぎ捨て、モンタージュよろしき断片的な人生をスキゾ的に生きる生き方を提案する。私は人間(♂&♀)が、しかし、そのようなモンタージュ、即ち、社会的場面の断片ごとに様々な役柄を演じるということを生涯に渡って継続できるような存在ではないと思う。限りないモンタージュの断片が作る<自分>を演じるのに疲れた時。本当の自分に幸福を与えるために本当の<自分>、即ち、スキゾ的な自分とともにモンタージュの如き人生を生きるのに疲れた時。幸福の青い鳥は自分の2LDKの部屋で見つかるのではないか。それは、パラノイア的な自己幻想と家族幻想への回帰であり、断片的ではない<自分の物語>への回帰である。そして、それは「遊動空間」から「実動空間」への回帰でもある。物語といい実動空間といい、それらが擬制であり幻想であることには変わりはないが、それらは民族が作り上げた歴史と文化とによって公共的な属性(間主観性)を獲得している家族と夫婦の物語である。そのような民族の文化と歴史に基礎づけられた<家族物語>の中で人間(♀&♂)は効率的に幸福を発見することができるのではないか。私はそのことを疑わない。蓋し、幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた。


第1部赤本と第2部青本を通じて、夫婦別姓論の基盤たる現在の先鋭化したフェミニズムの分析を行った。畢竟、フェミニズムの性差理解(feminists’ outlook in gender)は正しい一点をついているが、その社会思想の帰結は自明なものではない。蓋し、ヨーロッパ中心主義批判の哲学によって社会において実体的とされてきたものを解体し尽くした後に残るものがあるのではないか。それは、夢と愛なくしては生きていけない人間の現存在であり、それは、家族と民族の物語の中でのみ自己のアイデンティティーとプライドを確認できる社会的動物(ポリス的動物)としての人間の現存在である。さて、本部に引き続く第3部ではフェミニズムの世界観を内在的に検討し、更に、現実の社会に政治的統合を与える政治哲学の領域でフェミニズムの思想を吟味する。後段の切り口は、ナショナリズムとフェミニズム、デモクラシーとフェミニズムおよび憲法とフェミニズムである。以って、立法論としての夫婦別姓論の批判を行う最終部の前段となす。本稿『夫婦別姓論の構造と射程』も今回でようやく8合目まで登ったという所。次の白本でフェミニズム批判の頂上に立ち、最終黒本で一気に夫婦別姓論を蹴散らしながら下山する手はずである。早くそうなることを私自身も期待している。

<第2部:青本> 後半部了

平成14年7月14日
武州新百合ヶ丘にて
KABU=海馬之玄関亭主記す

URL: http://plaza11.mbn.or.jp/~matsuo2000/newpage2.htm


続く




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