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夫婦別姓論の構造と射程(?供法α鞍症?/h2>

目次
赤本:夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>
青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>
白本:夫婦別姓論の構造 <夫婦別姓論は自明の帰結か>
黒本:夫婦別姓論の前景 <制度は世界観の表現である>


青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>・前半部
★註および青い文字の部分は補足説明ですから、
最初は飛ばして読んでいただいて結構です。



■思想的混合物 その名はフェミニズム
この第2部青本では夫婦別姓論のとる男女の性差についてのものの見方を軸に夫婦別姓論が依拠する思想の根拠につき検討する。夫婦別姓論が依拠する人間観や社会観が立法論や法解釈論に反映される場合の言わば有効射程距離を見積もるのである。要は、夫婦別姓論の主張がはたして家族制度改革に関する政策提言としてどこまでは根拠がありどこからは別姓論者個人の願望や思い込みにすぎないのかを究明するわけである。尚、夫婦別姓論が依拠する世界観や人間観を本稿では便宜上「フェミニズム」とひと括りにして話を進めさせていただく(★註)。そして、フェミニズムとは「男女同権」を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を<同じもの>として取り扱おうという思想と定義しておく。夫婦別姓法制化を支持し、女性を蔑視攻撃し、「男子らしく」とか「女子らしく」という伝統的な言葉使いを言葉狩りによって糾弾する、およそ、ジェンダー(gender:文化の中で形成される性別の観念)の反映と理解されるようなすべてを批判せずにはおかない現在の日本におけるジェンダーフリー推進グループの思想が本稿でいう「フェミニズム」の典型である。

蓋し、男女の性差についてのものの見方は、「人間とは何か」「人間がつくる社会はどのようなものであるべきか」等々の人間観や社会観、総じて世界観といわれる思想の体系の中に位置づけられて初めて具体的な社会変革の主張に反映され立法や法解釈のロジックのパーツとなりうるのではないか。本第2部で夫婦別姓論の検討の一環としてフェミニズムの人間観と世界観の妥当性の根拠を検討するゆえんである。尚、第3部白本では青本の考察全体を前哨として、フェミニズムの人間観と社会観をその内容に踏み込んで分析し夫婦別姓論の構造を解明したいと思う。

フェミニズムは思想のごった煮ではないか。フェミニズムは思想的な混合物、即ち、思想の本籍地も現実への適用可能な領域も異なる本来異質な世界観と価値観の寄せ集めではないか。それは、近代立憲主義の「均質かつ平等なる人間」という人間観を含むかと思えば、他方、資本主義批判の哲学に導かれ家父長制を批判する。更に、ポスト構造主義の洗礼を受けて以後のフェミニズムは、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想をも援用するという具合である。

もちろん、多様な思想や理論を組合わせ取り組むべき社会的な課題の種類によって言わば構築主義的に最適な理論のセットを運用すること自体は何ら非難されるべきことではない。それに、ホワイトヘッドは言っているではないか、「総てのヨーロッパの哲学はプラトン哲学の脚注にすぎない」、と。所詮、市民革命のイデオロギーといいマルクス主義といい、または、ポスト=構造主義といえどもそれは人類全体の思想のカタログの中ではヨーロッパの哲学というある特殊なカテゴリーに属している。しかし、思想を構成するアイテム間に両立不可能な関係があるとすれば話は別である。思想を構成するアイテム間に両立不可能な関係があるような場合にはその思想は破綻していると言わなければならないだろう。私はフェミニズムにそのような破綻の危惧を感じる。

★註)フェミニズム(feminism)
フェミニズムは「男女同権主義、女性解放または女権拡張の運動・思想・理論」の意味で使われている。紀元前5世紀は古代ギリシアのアリストファネス『女の平和』にフェミニズムの泉源を求めるのは極端としても、ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』(1792年)、フーリエ『四運動の理論』(1808年)、トムソン『人類の半数である女性のうったえ』(1825年)、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(1884−1891年)等々を前史として、第二次世界大戦後「女性の性格は社会的に作り出されたもの」と考えるヴィオラ・クライン『女性―イデオロギーの歴史』(1946年)およびシモ−ヌ・ドゥ・ボーボワール『第二の性』(1949年)が現在に至るフェミニズムの黎明期を形成した。
本稿でフェミニズムと言う場合にはこの黎明期以降の男女同権論や女性解放論を主に念頭に置いている。即ち、1960年代半ばから70年代後半(日本では1970−1977年)所謂ウーマンリブの運動に端を発するフェミニズムの潮流。即ち、80年代前後の所謂女性学の潮流。即ち、80年代半ばから本格化したフェミニズム論争(性差の相対化、あるいはフェミニズム自体の相対化の運動)を通過した後の、男女同権を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を<同じもの>として扱おうという思想とその主張を本稿ではフェミニズムとして主に念頭に置いている。



■フェミニズムの思想基盤の検討
フェミニズムには3個の思想の基盤があると私は考えている。即ち、近代立憲主義的な人間観と世界観、資本主義を批判するマルクス主義的な人間観と世界観、および、ヨーロッパ中心主義を批判するポスト=構造主義的な人間観と世界観の3者である。フェミニズムの取る性差理解を批判する予備作業として、できるだけフェミニズムに引きつけながら、これらの思想内容につき一瞥しておく。

●近代立憲主義的な人間観と世界観
平等かつ均一なアトム的な個人こそが社会的な価値の唯一の主体である。国家も民族も家族も擬制、つまり、想像の共同体にすぎない。国家権力の役割は、社会的な価値の唯一の主体たる個人と個人の尊厳性から演繹される基本的人権を護ることにある。国家権力は基本的人権と基本的人権の現実的な細目であり基本的人権を実効的に確保するための諸々の権利を、国家と個人の間にある所謂中間団体(部族や封建領主や地域社会や企業や教会、等々)から護るための必要悪である。

●資本主義を批判するマルクス主義的な人間観と世界観
近代における国家は市民社会の支配勢力(ブルジョアジー)が人民を支配するための装置である。国家とはエゴイステックな欲望が赤裸々にほとばしる市民社会の支配勢力(ブルジョアジー)が中立を装う公的な権力を行使することによって自己の支配を貫徹するための暴力装置/イデオロギー装置にすぎず、国民や民族、家族という概念はこのような支配を補強するための擬制でありイデオロギーにすぎない。
屋外では資本家と労働者(男性)が労働の価値を争点に生産物の配分の比率を争い、屋内では家父長と女達が労働力の再生産および生命の再生産のための営為の価値を争点に家屋内の指導権を争っている。性的分業体制は資本主義体制が歓迎しその維持強化を望むものである。何故ならば、男性プロレタリアートは労働において疎外され搾取されるが、自らの家庭に帰れば家父長制的な支配構造の恩恵を享受する。男性プロレタリアートは家父長制によってその母や妻や娘から労働力再生産に必要なサーヴィスを無償で受けとることができるからである。而して、無償で労働力が再生産される所のこの家父長制的な支配構造の温存強化をブルジョアジーが支持することは当然である。ゆえに、資本主義社会において女性は資本主義的な抑圧と家父長制的な抑圧の2重の圧制下にある(★註1)。

●ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観
性別(gender)は文化によって形成され社会の中で人間に与えられた記号にすぎぬ。社会にビルトインされた性的差異を割り当てる文化的コードは歴史的に社会の中で形成されたものであり、「男」と「女」という性別(gender)はそのような文化が与える恣意的な規定性である。確かに性差(sex)は存在する。しかし、同性間の個体差と性別の差異に基づく性差がいかほど違うというのか。ならば、性の差異(gender)は人間本性にとって自明のことではなかろう。
このような人間観から見るならば、近代以後の自由・平等を唱道する人権思想も哲学も文学も法律も文化的な性(gender)を前提にしたいわれなき女性蔑視のメッセージが編み込まれたテクストにすぎぬ。それらは、一見価値中立的という意味で「透明なテクスト」であるかに見えて、実は、男性優位と女性蔑視の価値観が編み込まれたテクストである。それらは、一見、ジェンダーを超越した「人間」の視点から書かれているように見えるけれども、実は、<男>の視点から書かれている(ということは、<女>の視点からは読めない、)「不透明なテクスト」である。それは、<男>の視点からしか読み取れない炙り出しが組み込まれたテクストである。
畢竟、<男>の視点はロゴス中心主義的でありファロス(男根)中心主義的である。それは中心と周辺を隔絶することによって成立するパラノイア型=偏執症型の<男の論理>に貫かれている。そして、他者の介在なしにアプリオリに実在するイデア(実体概念)の実在を前提に構築された、ロゴス中心主義的でファロス中心主義的、かつ、パラノイア型の思想こそヨーロッパに典型的な思考パターンであった。而して、女性の解放は<男の論理>からの<人間>の解放、ヨーロッパの思考様式からの世界の解放を意味している。何故ならば、それは<男の論理=ヨーロッパの思考様式>から女性を解放するだけでなく男性も含む総ての人間を<男の論理=ヨーロッパの思考様式>から解き放つことを志向しているからである。では、<男の論理>からの全人類の解放はいかにして可能か。それは、<女の論理>による<男の論理>の包摂によって達成されよう。多様な価値を適宜使い分ける、否、多様な複数の分裂した<自分>を分裂したままで生きて行くことを可能にするスキゾ型=分裂症型の<女の論理>を基盤にパラノイア型の<男の論理>をもその一部に組み入れることによってである。(★註2)。

★註1)マルクス主義におけるフェミニズムの眷属
マルクス主義フェミニズムの基礎には、もちろん労働価値説等々のマルクス主義の経済哲学が横たわっており、かつ、マルクス主義経済哲学の周辺にはアミン等の従属理論やアンドレ・ゴルツ、ポランニ兄弟、イワン・イリ一イッチ等々から打ち出された広い意味のエコシステム論が控えている。
そしてなによりもマルクス主義の疎外論が黎明期前の女性解放思想に与えた影響は大きい。労働者(もちろん『経済学・哲学草稿』を執筆している時にマルクス自身は主に男性の労働者を念頭に置いていたと思う、)はその労働において4個の疎外(Entfremdung)を受けるとマルクスは語る。曰く、労働生産物からの疎外、生産活動そのものからの疎外、類的存在からの疎外、および人間関係からの疎外である。黎明期の女性解放思想はこの箇所を自分なりに引きつけてこう考えたのだと思う。即ち、 家父長制支配下の女性は、その「家事労働」において疎外されている。何故ならば、(a)「労働」の成果は家父長のものとなり自分のものにならない(労働生産物からの疎外)、(b)「労働」自体家父長から命じられたものである(労働活動そのものからの疎外)、(c)生命を再生産し家父長を含む男性の労働力を再生産するという生活と生存のためだけに「労働」がなされ、自由な意識活動や自由な対象化活動への道が遮断されている(類的存在からの疎外)、(d)このような労働成果・労働・人間の本来あるべきあり方からの疎外を強いる家父長制下において、女性と男性は潜在的な敵対関係に入らざるを得ない(人間関係からの疎外)。このような疎外論を援用した家父長制理解は黎明期の女性解放思想や1970年代後半までの初期のフェミニズムに対して社会認識の足場を提供したと思われる。
尚、家父長制批判への疎外論の援用に対する初歩的な批判に私からここで応えておく。即ち、(b)に対する「自発的に喜々として家事を行う女性がいるではないか」という反論と(d)における「夫婦や家長を含む家族・親族が仲がよいケースはいくらでもあるではないか」という批判についてである。これらの批判は成立しない。何故ならば、資本主義体制下の(男性)労働者でも自分の仕事が好きで好きでたまらないという者も少なくなかろうし、また、資本主義体制下でも労働者(男性)と資本家の関係が極めて良好という場合も少なくなかろう。(b)の場合の要点は、労働者(男性)も家事労働者も資本家や家父長の出す命令に反することが許されていないという点にあり、(d)における問題点は労働者(男性)および家事労働者の利害と資本家および家父長を含む男性の利害が本質的に対立するという点にあるのだから。

★註2)ヨーロッパ中心主義批判の思想
ヨーロッパ中心主義批判の思想は中世リアリズム論争に端を発し(ということはその源泉は古代ギリシアの哲学にあり、中世イスラーム世界の中で育まれた。)、19世紀末から20世紀初頭にかけての数学の存在論的革命の中で既に結論は見出されていた。カントールの素朴集合論とデデキントンによるその定式化を前哨にし、ヒルベルトによる公理主義、ブラウアーの直観主義、ラッセルとホワイトヘッドによる論理主義という数学基礎論の構築がその思想の数学における表現である。日本におけるポスト=構造主義の旗手浅田彰さんが影響を受けたとされるブルバキ『数学史』とワイルダー『数学基礎論序説』は数学の存在論的革命の経緯を記述する教科書にすぎない。
人間の行動パターンをパラノイア型とスキゾ型に大別して理解するアイデアは、浅田彰『逃走論』(1984年)によって日本では一般的になったと思う。しかし、概念の実体性の否定、唯名論的思考による存在論の再構築は別にポスト構造主義の手柄というわけではない。否、イデアの実体性を主張する概念実在論を否定する哲学的な作業は、実質的にはフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインを通じてシュリックおよびカルナップに至る論理実証主義と現代の分析哲学派によって成し遂げられたと私は考えている。いずれにせよ、ヨーロッパ中心主義への批判がヨーロッパの哲学によってしか成し遂げられなかったことは、際物のエスニシズムが日本でこれ以上跳梁跋扈することを防止するためにも記憶されておくべきことだろう。




■フェミニズムの思想基盤に走る断層
フェミニズムの基盤には断層が走っている。断層は2種類ある。フェミニズムの土台を構成する個々の思想とフェミニズム間の断層とフェミニズムが異質な思想体系を基盤としていることに起因するものとの2種類である。以下これらの断層群を検討するが。検討は3個の思想とフェミニズム間の断層の吟味から始め、フェミニズムの基盤たる思想体系相互の軋みの考察に至る。もって、フェミニズムが主張する男女の性差についてのものの見方がそれほど自明で自然なものかどうかを漸次明らかにしたい。

●フェミニズムとその思想基盤の間に走る断層
甲:近代立憲主義とフェミニズムの断層
近代立憲主義的な人間観と世界観は、平等かつ均一なアトム的な個人こそが社会的な唯一の価値の主体であり、国家も民族も家族も擬制にすぎないと主張する。国家も民族も家族も擬制でありそれらが想像の共同体であることに私は激しく同意する。現代の先鋭化したフェミニズムはこの近代立憲主義的な人間観と世界観に依拠して夫婦別姓の法制化や就労・育児における完全で実質的な男女の平等を主張する。そもそも、性別(gender)なるものは文化的な規定性にすぎず、自然的性差(sex)に直接起因しない男女へのあらゆる異なった取り扱いは近代立憲主義体制下では認められない、と。これが現代のフェミニズムの考えだと思うし、而して、私がフェミニズムの基盤の一つとして近代立憲主義を挙げるゆえんである。

しかし、近代立憲主義はあらゆる共同体をフィクション(擬制)として捉えただけで完結する思想体系ではなかった。それは、一度、論理的にあらゆる社会的な共同体のアプリオリな存在根拠を否定しさった後さらに前進する。想像の共同体の王国を政治哲学的に再構築する方向へ。即ち、あらゆる政治制度や社会関係はフィクションにすぎないが、そのフィクション自体の中に人々を納得させ帰依させる妥当性の根拠を発見し体系化したのである。ホッブス、ロック、ルソー、モンテスキュー、バーク、ジェファーソン等々の営為はそのような類の知的格闘であった。それは、端的には国民を支配する権威の根拠を持たないもの(国家)に神の如き権力を与える(ホッブスの言う可死の神としての国家。)という難題との格闘であった。

蓋し、フェミニズムと近代立憲主義との間には断層が存在する。畢竟、性(gender)をフィクションと捉える所まではフェミニズムは正しい。しかし、性(gender)がフィクションであることと、文化的な性差(gender )に基づく法的や慣習的な諸制度が無根拠であることは別のことである。まして、文化的な性差(gender)の反映であるような諸制度が人間性の本質からみて許されないような人倫に反しているものか否かは性(gender)がフィクションであることだけからは肯定も否定もされることではない。


乙:マルクス主義とフェミニズムの断層
フェミニズムとマルクス主義(★註)は次のような物語の中で結びつく。女性の労働の価値を巡る女性にとっての不条理劇の中でである。即ち、人類が人類として存続していくためには、生活資料(衣食住等々の物質的資材、)の生産獲得と生命の再生産が不可避である。これら二つのタスクを人類は専ら男女の性的役割に基づく分業の中で営々と行ってきた。問題は、総ての社会的な価値が貨幣によって計量される社会(資本主義社会)の登場とともに顕在化した。何故ならば、資本主義社会では、原則、あらゆる生活資料は商品として生産され商品として流通されるから、商品としての生活資料と交換するための貨幣を稼ぐ者が総ての社会的な価値を屋外から屋内にもたらすことになる。つまり、屋内にとじこもる女性は社会的な価値を表面的には何も生み出さず、1ペニー相当の価値(貨幣)をも屋外から獲得してこない社会的価値のない存在に貶められたのである。人類の存続に不可欠な生命の再生産のための大部分の営為は女性達が引き受け、また、家父長を含む男性労働者の労働力の再生産は彼女達なしには行えないというのに、資本主義体制下では女性の社会的な価値はゼロになったのである、と。

このような女性の境遇の不条理さを糾弾するマルクス主義の指摘は確かにある意味正しい。誰しも「ただ働き」はご免こうむると言うに違いない。マルクス主義からのこのような女性の現状認識がフェミニズム思想の基盤の一つとなるのも当然である。例えば、水田珠枝先生はこのようなマルクス主義的な社会認識に立った上で女性解放の戦略につきこう述べられている。「階級闘争による資本主義の克服だけでなく、資本主義を下からささえた性支配の組織、家父長的家族の根底からの変革がなければ、女性の解放は達成されない。家族が、これまでのように生産や消費の唯一の単位でなくなり、出産や教育の唯一の場でなくなることによって、つまり、家族がになってきた機能が社会の手にうつされ、家族の性格がおおきく変革されることによってはじめて、長い間、分離・対立させられてきた生活資料の生産と生命の生産、社会と家族、公生活と私生活は結合されるであろうし、女性は、労働者であると同時に生命の生産のにない手として、男性におとらない評価をあたえられるにちがいない」(『女性解放思想史の歩み』岩波新書・1973年、16頁)。「わたくしは、女性問題を、労働と性の矛盾の問題、そしてその矛盾を固定化し制度化した家族制度と、それにささえられた階級社会の問題としてとらえた」(同書、204頁)、と。

フェミニズムがフェミニズムを標榜するマルクス主義である限りフェミニズムとマルクス主義の間には恐らく断層は存在しないであろう。その場合、しかし、フェミニズム的なマルクス主義はマルクス主義一般が被る批判を甘受せねばならない。即ち、労働価値説と唯物弁証法が分析道具であることにすぎないことによる限界性である。例えば、「マルクス主義は社会や歴史を見る非常に成功した見方の一つではありますが、そのアングルから抜け落ちる文化とかナショナリズムとか個人の主観的な幸福感の方を歴史や社会を見る上でより本質的と考える論者を否定することはできませんよね。もちろん、そのような論者からマルクス主義的な世界観が否定されることもありませんけれども」という問いにマルクス主義は頷くしかないのではあるまいか。

本来、マルクスは人類のあるべきあり方がどのようなものであるかに関してはそれが大きな問題だとは考えていなかったと私は思う。マルクスはそれを実に明快に語っている。それは、人間の「自由な意識活動や自由な対象化活動」を通じて人類全体の生活資料が充分に生産され必要に応じて分配される社会である。マルクスはそのような状況に人類が至るための方途を究明すべく眼前の現代社会たる資本主義社会の矛盾の解明に没頭した。その解明と方途の発見のために開発した分析道具が労働価値説であり唯物弁証法である。畢竟、マルクス主義は現代社会の矛盾を解明することとその矛盾を解決するという二つの部分からなる社会思想である。フェミニズムがフェミニズムに関心を抱くマルクス主義から分離し、マルクス主義を社会認識の道具として扱うとき、つまり、マルクス主義的なフェミニズムとなるときその基盤たるマルクス主義とフェミニズムとの間に鋭い断層が走る。私はそう考える。

簡単な話だ。マルクス主義は人類を解放するために眼前の資本主義社会の矛盾を鮮明に浮き上がらせた。それは、そうすることが人類解放の方途を指し示すために有効だったからである。しかし、この営為は資本主義社会が止揚された後のあるべき社会のイメージを楽天的と言われるにせよ牧歌的と皮肉られようとも厳としてマルクス主義が保持していたからこそ意味のあることだった。マルクス主義はその中に社会認識と社会改革の思想をあわせ持つことにより、「いいたいことも言うが、社会改革の成果につき責任も負う」という言わば潔い社会思想なのである。しかし、フェミニズムが現代の資本主義社会が変革された後の具体的な社会のイメージを持たないまま資本主義社会と家父長制の支配する現代の日本社会の矛盾をあげつらったところでそれは書生論にすぎない。マルクス主義者のように現在の日本の社会に罵詈雑言の雨を降らせても、マルクス主義者のようにある明確な目的地を想定しその目的地に到達するためのある明確な経路をリスクを負って指し示す根拠と気概がなければそれは書生論である。そして、男女共同参画社会基本法の如き法的な裏付けを獲得した書生論ほど危険なものはないのではないか。マルクス主義とマルクス主義的なフェミニズムの断層は後者が前者のいいとこ取りをするがゆえに生じる。それは、具体的なあるべき社会のイメージとその社会への経路をその思想体系自体から演繹できるや否やという社会思想にとっての鼎の軽重が問われる枢軸に沿って鋭く走っている。

★註)マルクス主義
マルクス主義は、唯物弁証法(上部構造―下部構造の概念による重層的な社会認識と唯物史観および階級闘争史観という歴史認識)を構えとし、労働価値説(商品論・疎外論・物象化論・物神性論)を尖兵とする壮大な世界観提示型の社会哲学である。それは後に帝国主義論(資本主義の発展段階論)および社会主義リアリズム(文化戦略論)を生み出す母胎となったほか、多様な社会認識と社会改革のアイデアの源泉となった。



丙:ヨーロッパ中心主義批判の思想とフェミニズムの断層
現代日本のフェミニズムが基盤とする3番目の思想こそヨーロッパ中心主義批判の社会思想である。ヨーロッパ中心主義批判は日本ではポスト=構造主義(★註1)といわれる一群の哲学と同値と考えられている節もある。ヨーロッパ中心主義批判の思想は、しかし先述したように、ヨーロッパの胎内で営々として彫琢を加えられたものである。その核心を私は次の3個と考える(以下の記述に関しては、「記号」を「言葉」や「単語」と置き換えて読んでいただければ解りやすいと思います)。即ち、

イ) 実体概念の否定
記号に意味を付与するものは記号そのものではなく記号の使用に関するルールである
ロ) 記号の成立条件としての差異性
ある記号を記号として存在させる条件は、その記号がその記号以外の総てから明確に識別されていることと、他の記号との差異である(例えば、「こいし」と「こいぬ」は最後の「し」と「ぬ」の差異によって初めてお互いを、「小石」と「子犬」という別の記号として成立させている。)
ハ) 記号の使用に関するルールの恣意性
記号の使用に関するルールの妥当性は、あるときは慣習、あるときは当事者同士の規約、またあるときは権威者の命令によって付与されるのであってそこに天然必然の関係は存在しない

ヨーロッパ中心主義批判の思想は性別(gender)につきこう考える。「女」とか「男」なるものがアプリオリに存在するわけではない。「男」や「女」が時間や空間を超越して普遍的に「女」や「男」であるわけではない。何故ならば、「男」や「女」が普遍的に存在する実体・実在(Substance)であるということを経験的に論証しようとするならば、「女」や「男」と呼ばれている個々の個体(個物)間で、共通の性質の個数が(大きい、小さい、男根を持つ、子供を産む等々の性質を何個共通に持っていかということ、)明らかに「女A」と「女B」の方が「男A」と「男B」よりも多いことにならなければならない(似ている度合いが高くならなければならない)。詳細は割愛するが、数学的には「女A」と「女B」のペアと「男A」と「男B」のペアの似ている度合いは全く同じになる。それどころか「女A」と「女B」のペアの類似性は、「灰皿A」と「モンブランの万年筆B」のペアと比べてさえ同じなのである。よって、我々の経験に先立つ所で厳として実在するような実体は存在せず、「男」とか「女」とかいう区別立てには何の根拠もないことになる、と。

しかし、この結論は我々の日常生活の実情とあまりにも隔たっている。世界のあらゆる事象に区別がないという世界に我々は生きているのだろうか。また、そんな世界で我々は生きていけるだろうか。人間はパンの変わりに鋏を食べても気づかないだろうか。子猫が可愛いと思うが、いきなり飛び出してきた野犬に対して両手を広げて迎え入れるだろうか。否である。しかし、数学的かつ哲学的にはこの帰結は動かない。ヨーロッパ中心主義批判の思想はこのジレンマを斯く解決する。即ち、人間はその生活と生存の必要のために「より重要な性質」をもとに世界の森羅万象を主体的に区別(分節)しているのではないか。「より重要な性質」という限られた個数の性質をもとにするのであればある個物のペアと別の個物のペアとの間で似ている度合いの差が生じうる。例えば、「男根」を持っているという性質を「より重要な性質」とすれば総ての人間をモーゼの前の紅海のように男と女のグループに真っ二つに分けることができよう、と。しからば、この「より重要な性質」の「重要性」はどこから人間に与えられるのだろうか。ヨーロッパ中心主義批判の思想はこれを文化が人間に与えると考える。人間は生活と生存の必要のために記号(概念)使用のルールやコードを編み出し社会の中に蓄積してきた、と(★註2)。

男女に本質的な差異はない。男女の差異などは文化の中で便宜上行われている因習にすぎない。このヨーロッパ中心主義批判の思想からのメッセージはフェミニストにとって福音だった。フェミニストはこの福音書を胸に抱き、文化の中に潜む男女差別、女性蔑視の隠されたコード(言語を始めあらゆる記号使用のための暗号解読表)を探し、その暗号解読表に基づいて表面的には男女差別には価値中立的と思われていたテクスト(憲法や法律や文学から冠婚葬祭の習慣や小学校のクラス名簿に至るまで、)の中に女性蔑視の破廉恥な内容がふんだんに盛り込まれているのを発見した(★註3)。

フェミニズムとヨーロッパ中心主義批判の社会思想との間には断層が走っている。それは、他の思想基盤とフェミニズムの間の断層よりも致命的なものではないかと私は考えている。何故ならば、ヨーロッパ中心主義批判の思想構造のキーストンに現代の先鋭化したフェミニズムの主張と相反しかねない契機が孕まれているからである。それは、記号の使用に関するルールの恣意性に関する。即ち、記号の使用に関するルールやコードの妥当性は慣習や文化の中で定まり、そのルールやコードは人間の生活と生存の必要性のために歴史的に文化の中で形成されたものである(自生的秩序)。他方、フェミニズムは「男」と「女」に本質的な差異はなく、「女」と「男」に差異を設けるのは文化の規定にすぎず人為的に変更が可能であると主張する。けれども、歴史的に育まれてきた「文化の規定」を人為的に変更することがそれほど容易であろうか。また、「文化に蓄積」された偶然の集積こそ人間の生活と生存のために世代を越えて人間が蓄積した英知そのものではなかろうか。ならば、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想を基盤としつつ自生的な文化を擁護する立場から「男」「女」の文化的な差異(gender)を肯定する見解もフェミニズムと全く同じ根拠を使って主張可能になるではないか。

もともと、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想が「ヨーロッパ中心主義批判の」という形容句を付けて呼ばれるようになった理由の一つは、ヨーロッパの文化が他と隔絶して優秀であるという倣岸不遜かつ無知蒙昧の考えを、文化なるものは人間の記号使用の営為のパターンに他ならず、その記号使用にルールとコードを与えているやり方はヨーロッパも非ヨーロッパも共通していますよ(共通でないにしても、理論的にはどちらが優秀なやり方とはいえない同じレヴェルのものですよ)、ということを証明し倫理的かつ思想的に嗜めたからに他ならない。人間のあらゆる文化は社会生活のためのあらゆる記号使用にルールとコードを与えるやり方の束にすぎないし、その記号使用においてどの文化が他の文化よりも数段優れているということはないのである。ならば、総ての文化は社会生活のためのあらゆる記号使用にルールとコードを与えるやり方の束であるという点で同じならば、逆に、世界中を「ヨーロッパの文化一色に染めても文句はあるまい」と言えるだろうか。否であろう。欧米以外の諸民族が欧米列強のそのような策動に対して激しく非難抵抗をしたのが20世紀の歴史ではなかったか。蓋し、フェミニズムの主張は男女の平等という口当たりの良いスローガンを掲げながら、実は、このような文化を人為的に操作しようという倣岸不遜の立場なのかもしれない。それは、ヨーロッパ中心主義批判の思想を援用しながらもかってのヨーロッパがヨーロッパ以外の諸民族に対して行った人倫にももとる文化破壊を引き起こす危険性を秘めているのではないか。フェミニズムとヨーロッパ中心主義批判の思想の間に走る断層は絶望的なほど深い。

★註1)ポスト=構造主義
ポスト=構造主義なるもは日本でももう流行らなくなったけれども、その本国フランス以外ではある意味終始マイナーな存在でしかなかった。何と言っても現代哲学の世界の主流は英米の分析哲学であり、カント・ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・現代解釈学派と続くドイツ哲学である。こんなことはインターネットが普及している現在、少し英語とドイツ語とフランス語が読めるのであれば誰もが容易に確認できることである。げに日本の思想界は歪である。これは哲学には素人のリヴェラル側=旧体制側の進歩的文化人が垂流す噴飯ごとの所業に異議申し立てをしない専門哲学者の責任も大きいと思う。

★註2)実体概念の否定
ここでは便宜上、ポスト=構造主義的からの説明は行わずより分析哲学的な説明をあえて行った。ポスト=構造主義から説明しようとすると一般言語学(例えば、ソシュール)の幾つかの用語や用語の操作の経験を前提にせざるをえないからである。しかし、実体概念の否定、記号の成立条件としての差異性および記号の使用に関するルールの恣意性の意味はある程度お伝えできたかと思う。尚、本文で割愛した実体概念不成立の数学的証明のもっとも簡明なスタイルについては、今は品切れと思うけれど、渡辺慧『認識とパタン』(岩波新書・1978年、90頁以下)の一読をお薦めする。

★註3)記号としての文化
記号は言語に限られない。道徳的な慣習も冠婚葬祭のような習俗もすべて記号と記号の使用例と考えられる。ヨーロッパ中心主義批判を標榜するポスト=構造主義の源流の一つはこのような文化を記号と記号の運用の総体と見る所謂文化記号論的から薫陶を受けた哲学であった。一般には、ある事柄がそれ事柄以外の総ての事象から明確に識別され、他の事柄との差異も明確であり、また、その事柄が別の事柄を指し示すという関係にある場合。そして、その指し示すものと指し示されるものとの関係が明確にルールとして定まっているのならば、そのようなすべての事柄は「記号」と考えられてよい。ヨーロッパ中心主義を批判する思想はこのような、文化を記号と記号の運用の総体と考える視点から言葉(音声言語/自然言語)で書かれたもの話されたものを越えて(慣習や習俗や個人の身体行為等々の中に、)人間が込めた意味を見出そうとする。正直、その知的作業は素晴らしい。



<第2部:青本> 前半部了

平成14年7月7日
武州新百合ヶ丘にて
KABU=海馬之玄関亭主記す
URL: http://plaza11.mbn.or.jp/~matsuo2000/newpage2.htm


続く




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