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夫婦別姓論の構造と射程

目次
赤本:夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>
青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>
白本:夫婦別姓論の構造 <夫婦別姓論は自明の帰結だろうか>
黒本:夫婦別姓論の前景 <制度は世界観の表現である>


赤本:夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>


■はじめに
夫婦別姓を巡って様々な議論が展開されている。私は、夫婦別姓に関しては原則反対 である。
但し、「通称」として婚姻前の姓や離婚前の姓を名乗る行政法的や商法的な余地を認 める法制度改革は必要かもしれない。しかし、いずれにせよ、夫婦別姓(選択制にせ よ、)を容認するような民法上や戸籍法上の制度改革は妥当ではないと考えている。
本稿は<翼>に掲載された、はるぽんさんの論説「夫婦別姓を解体する」に刺激と勇 気を得て自分なりに夫婦別姓論を吟味検討するものである。本稿は、しかし、はるぽ んさん論説と同じく夫婦別姓の「制度」ではなくどちらかと言えば夫婦別姓の「論 議」に焦点を当てたものであることは最初に明記しておきます。

本稿は4部構成を取る。即ち、夫婦別姓論の根拠を概観する第1部(赤本)、♂&♀の 性差理解から夫婦別姓論を検討すると第2部(青本)、そして、これらを前哨として 第3部では夫婦別姓論に対して社会思想的な批判(白本)を行い、第4部では「法制 度」の意味を吟味した後、夫婦別姓論からする社会のあるべきあり方を検討する予定 である(黒本)。もって、「フェミニズムに反対する立場は国家主義的で古い考え方 である」「フェミニズムの正しさは議論の必要もないくらい自明なことだ」などとノ タマウ、ファシスト的でさえある現在のフェミニズムの行動様式や思考様式を相対化 して、もってフェミニストという名のファシズムを攻略するためのベースキャンプを 設営できればと念じている。


■夫婦別姓論の根拠を覗いてみる
夫婦別姓を推進する論議の背景には以下のような「夫婦」や「家族」や「性差分業」 に関する考え方が横たわってはいないだろうか。即ち、

(1)「家族」や「夫婦」は幻想に過ぎない
<夫婦>なるものは、法的な制度=擬制に過ぎず、実体として(現実に)存在するの は、 <男>と<女>という個々の人間(個人)に過ぎない。かつ、夫婦同姓の現状は、結 局、 「家族」という法的な擬制を維持するためのイデオロギーの反映に過ぎず、本来は実 体 のない<夫婦>なるものや<家族>というものを、何かありがたいもの、個人とは別 個に 独自の価値を持つものと誤解させるものである。畢竟、個々の人間を離れて存在する 「家族」や「夫婦」なるものは存在しえず、「家族」や「夫婦」なるものの本質はそ れを 構成するとされる個々人の物理的と精神的な関連性の総和に過ぎない。
(2)幻想再生産の背景
では、何故に、「家族」や「夫婦」の本質を誤解させるような擬制が堂々とまかり 通って いるのか? それは、儒教的な意識構造(封建的な意識構造)と資本主義的な支配構 造、 ならびに男が女を支配することが当然と考える男=ロゴス=ファロスを世界観の中心 に据える所謂ヨーロッパ中心主義主義の世界観の存在である。即ち、<男>による <女>に対する性差に基づく抑圧/支配構造を維持するためである。そのような封建 的と資本主義的と西欧的な三重の抑圧/支配構造を維持するためにそのような擬制= イデオロギーが有効だからである。


■「家族」と「夫婦」の幻想性を検討してみる
「家族」や「夫婦」が擬制=幻想にすぎないことは自明である。このことは「国家」 や「国際社会」が擬制であること、所謂想像の共同体であることと同値である。しか し、この意味での擬制は、「巨人軍なるものは読売ジャイアンツと契約している個人 事業主である選手や監督、コーチの総和に過ぎず、存在するのは個々の人間以外には ない」とか「天皇制とは天皇を<天皇>と考える人々の意識と行動の総和に過ぎず、 天皇制なるものはそれらの人々の意識と行動以外になんらの実体もない」、と言う事 と同じであり、この擬制論=幻想論で否定される事柄と否定されない事柄があるので はないだろうか? 「夫婦」や「国家」が幻想に過ぎないとしても、それらは正に幻 想や擬制そのものとして実体的な影響を人生や社会や国内外の政治に及ぼしている。 この幻想の持つ実体的な影響力が無視し得ないからこそ、夫婦別姓推進論者は家族や 夫婦の幻想性を批判しているに違いない。ある擬制はそれが幻想であるからといって その存在意義までも否定されるわけではない。ある擬制の存在意義はその擬制の幻想 (=イデオロギー)としての性能・効能・機能に収斂することになろう。

「人間はいずれ死ぬものだ」という命題が正しいとしても、「人生には何の意味もな い。何故ならば、人間はいずれ死ぬものなのだから人生なるものは一時の幻想に過ぎ ない」という主張が正しい訳ではない。夫婦や家族の幻想姓をアゲツラウことでは夫 婦別姓論は何の説得力も獲得しないし、夫婦同姓論がいささかでも否定されるわけで はない。それは、人生の意義が所詮自己幻想(パラノイア的な幻想性)に過ぎないこ とで否定されるわけではないことと同じである。

所詮、夫婦なり家族は所属する草野球チームのユニフォームなりチーム名に過ぎない のかもしれない。しかし、所詮、野球は一人ではできない。野球の試合に出場するに はニフォームがあれば便利だろうし、野球のチームに所属することが不可欠である。 而して、ユニフォームやチームが所詮記号や幻想や擬制に過ぎないとしても、野球の ゲームをエンジョイするにはそのチームやユニフォームは不可欠である。ならば、人 生というゲームに参加し、生涯の七難八苦を乗り切り、そして、自己の個性を華咲か せ感動に満ちた人生を各人が楽しむために、「家族」や「夫婦」という幻想や記号を 使用することが有効であるならば「家族」や「夫婦」という擬制やイデオロギーの意 義は何ら批判される筋合いはない。


■「家族」と「夫婦」の幻想再生産の検討
「家族」や「夫婦」の幻想は、男女の性差による役割分担を当然のことと了解させる 封建的な支配のイデオロギーであり、自立した存在として生きたいという女性を抑圧 する社会の仕組みを上部構造の面でサポートしている。また、この男女の性差による 分業体制は、資本主義的な疎外と搾取構造を補強する仕組みでもある。何故ならば、 男が搾取され疎外されるにせよ、彼は家庭で女を抑圧することでその労働力を再生産 することが可能であり、彼の労働力再生産に資本側は特別なコストを割く必要がない のだから。さて、この見解は正しい認知であろうか? 正しいと私は考えている。

でもね、でもね。ではその性差に基づく役割や資本主義的な疎外体制や搾取の仕組み は邪悪で論理的に許されないような悪いことであろうか? 私は、必ずしも邪でも悪 でもないと考える。この経緯は、本稿の第3部(白本)で詳述されることになる。こ こでは結論だけを記しておくことにする。蓋し、夫婦別姓論は、男女の性差による役 割分担や資本主義的な疎外構造、はたまたヨーロッパ中心主義が悪であることを自説 の正しさの根拠としている。しかし、夫婦別姓論が「性差による役割分担や資本主義 的な疎外構造」が悪であるとの論証が必ずしも成功しているとは私は考えない。はた して、善なる生産関係や正義に適った分配構造なるものが社会制度として存在しうる ものだろうか? 夫婦別姓論の論者は自分の価値観や願望を基準にして、言わばその <天国でのみ妥当する基準>からして神でも悪魔でもない人間の作るこの社会の生産 関係や分配構造を批判しているだけではないだろうか。

「家族」も「夫婦」も幻想であり擬制でありイデオロギーである。しかし、その幻想 性・擬制性・イデオロギー性は「家族」や「夫婦」の存在意義を何ら減じない。ここ で、私が尊敬してやまない??小平先生の言葉を転用させていただければ、「黒い幻想 も白い擬制も鼠を取るイデオロギーはよい幻想であり、鼠を取らないイデオロギーは 悪い幻想である」。蓋し、現在の「家族」や「夫婦」という幻想が個々人(♂&♀) をしてその人生を感動的に送らしめ、個性を華開かせることを個々人に可能にせし め、活気と隣人愛に満ちた日本社会を具現する上で有効であり、而して、日本を尊敬 される国としていく上で役立つならばその幻想性はよいイデオロギーであり、よいイ デオロギーに担保された法的制度である。そして、私は「家族」や「夫婦」というイ デオロギーは結構、よくできた幻想でありそれに担保された法制度は充分に尊重され るに値するものであると考えている。

家族や夫婦という共同幻想を否定し、産む性と産めない性という生物学的な差異を生 物学的な差異としてのみ位置づけ、ジェンダーを捨象した等質な個々人のみを社会の 構成要素と考える夫婦別姓論もそれが、ある種の社会と個人の幻想に依拠する擬制で あることは夫婦同姓論と変わらない。何故ならば、生物学的な差異を捨象することは ある種の価値観(♂も♀も等価値で等質であるべきだという価値観、)を待ってはじ めて可能になるある特殊な世界と社会の見方に過ぎないからである。染色体の差異も ♂と♀の生殖器の差異をも捨象することは間違いなく事実の記述ではなくて、ある御 伽噺物語(フェアリーストーリー)の提示に他なるまい。ならば、我が??小平翁の顰 にならった先の言葉がここでも聞こえてこよう。即ち、「黒い幻想も白い幻想も鼠を 取るイデオロギーはよい幻想であり、鼠を取らないイデオロギーは悪い幻想であ る」、と。この幻想性の良否の検討が本稿の最終章(黒本)の課題となる。

<第1部:赤本> 了

平成14年4月20日
武州新百合ヶ丘にて
KABU=海馬之玄関亭主記す

URL: http://plaza11.mbn.or.jp/~matsuo2000/newpage2.htm


続く




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